rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

プラモデル作成の過程を載せるつもりですが、気ままに書きます

徒然MMT[3] - マルクス経済学はMMTとは相容れないのだろう|追記あり

追記 10/21 22:00

Twitterにて石塚さんより返信また資料の提示をいただき、石塚さんがとうの昔に精緻にマルクスを読まれていること、とそんな方にいまさらな講釈など垂れてしまって(少なくとも熊野さんが易しく書いた新書レベルより、石塚さんがよほど精緻にマルクスを読解されていることは、提示いただいた資料で重々理解できた)、承前以下の文章は石塚さんに対して大変不躾なものだったかなと思う。お詫びすると同時に、資料については大変勉強になったのでお礼申し上げたい。

他方、提示いただいた『マルクス・カテゴリー辞典』における労働価値説のご説明の中で石塚さんも述べている通り、マルクスにおいての抽象的人間労働という概念は、商品の交換的等置のなかではじめて成立する、たちあらわれるものであると理解していた。時間的には、事後的、遡及的にそのようにたちあらわれるものであるが、マルクスは商品の価格が生産に要した(抽象的人間)労働の量に等しいと、一旦そういうものだと仮定をおいて論証せんとしていたところを、”とりあえず”と書くのが無理筋、マルクスの理路を大きく改変するものだとの指摘には、まだ疑問を持っている。

ただし、私が引用した『マルクス 資本論の哲学』において熊野さんは有名な価値形態論のだいたいを、とはいえマルクス自身の説きようとはときおり距離を取りながら辿ってきた(p.39)と述べており、かつ、私の理解の多くがこれに依拠しているので、マルクス自身というよりは熊野さんの理解を挿入してしまっているとの批判は免れないだろう。実際のところ、私が付け足した"とりあえず"は、熊野さんの記載をもじったものである。

脱線してもう少し言えば、価値通りの交換、という記載も気になった。例えば主体間の力関係の差などに起因して如何に交換の主体の一方において理不尽なものに思われるような(搾取の度合いが大きい)交換であったとしても、あるいは価値というよりは生産価格に応じた交換だったとしても、結局それは抽象的人間労働という価値概念の側、すなわち資本の側からみれば、交換が実施されるや否や、それはすべからく等置だということになるのではなかろうか。交換は、成立しさえすればそれはすべからく価値通りの交換であって、であるからわざわざ、価値通りの交換、などと言って見せる必要はないのではなかろうか。

それを、労働生産物を相互に価値的に等置することの結果として、事実上彼らが彼らの労働を相互に等しい質を持った労働として承認しあうなどという言い方をしてしまっては、交換におけるしばしば暴力的な性質が覆い隠されてしまうような印象を受けた。当然、商品を作るのにしばしば実際に投入した個別具体の労働における苦労や困難、あるいは実際に労働に要した時間などと、抽象的人間労働およびその量は何ら関係がない。我々(、と言ってみるが)労働者の個別具体的な生は、抽象的人間労働の視座にはいない、あるいはどうでもよいことだ。我々労働者が感じる理不尽の源泉の一つはここにあるだろう。

話を戻すと、石塚さんの立場は、マルクスの貨幣理解には限界がある、ということのようで、現状の私がそこに何か言えるほどのものは持ち合わせていない。しかし、以下の熊野さんの言及をもってすると、意外と展開が見えるようにも思えた。

ここで示されるのはまた、第三形態と第四形態のあいだの本質的な同等性に他なりません。逆にいえば『資本論』で説かれる貨幣形態、つまり一般的等価物の形態を「金」が「歴史的に勝ちとった」経緯それ自体の歴史的偶然性にほかならないわけです。(p.39)

承前

石塚さんの記述に、「えっ!」と思ってしまったのだが、案の定というか、にゅんさんが突っ込んでいた。

以下、なんとなく続ける。

マルクスは労働価値説を唱えた?

まず、留保をおくと、石塚さんが「労働価値説」なる言葉をどのような意味で使っているかにもよると思うのだが、元の文脈、さらには引用の読解には大きな違和を覚えた。

にゅんさんも石塚さんもちょうど資本論の同じ段落を引用しているのでその部分を高畠訳(手元にあるのが高畠訳だけなのです)から持ってくると、

金それ自身の価値は、金の生産に必要な労働時間に依って決定され、等量の労働時間が凝結している他の各商品の分量に依って言い現される。金の相対的価値大小の斯かる確定は、金の生産所に於ける直接の生産物交換に依って行はれる。されば、金が貨幣として流通に入るとき、その価値は予め既に与えられている訳である。十七世紀最終の数十年に於いても、貨幣の商品たることを知り得る程に貨幣分析は進んでいたが、それでもまだ発端に過ぎなかった。貨幣が商品であることを理解する点ではなく、寧ろ商品なるものは如何にして、何故に、また何に依って、貨幣となるかを理解する点に、難関が存しているのである。(高畠訳|S.107)

この1文目、2文目を石塚さんは次のように解釈する。鍵つき裏アカの投稿だけどご自身でキャプチャを表アカで貼られているので引用させてもらうと…

つまり、産金労働の労働時間で決まる、その意味で他の商品と同じく、貨幣の価値にも労働価値説が妥当するとしている。

おかしい。当該箇所は、ここまでくどくどとマルクスが述べてきた、商品から始まった価値形態の変遷を改めて述べている箇所である。自分なりに言い換えれば、「金のそれ自体の価値は、"とりあえず"金の生産に必要な(抽象的一般)労働時間に依って決定されるのだが、等量の(抽象的一般)労働時間が投下されている"とみなされる"その他の商品の分量に依っても言い表される。」とでもなるだろうか。石塚さんの解釈では、まるで(抽象的一般)労働時間なるものが予めあって、しかも誰もがそれを知っているかのような記述なのだから、訳が分からない。まるで新古典派経済学が言う"自然"失業率みたいだ。

資本論を遡ると…

要するに人類は、その労働諸生産物が種類の相等しき人間労働の単なる物的外皮として通用するが故に、これを価値として相互関係せしめるのではなく、寧ろ反対に、種類の相異った各生産物をば交換上価値として相互等位に置くことに依って、彼等の相異った諸労働をば人間労働として相互等位に置くのである。それは彼等の知らざるところであるが、然し事実に於いてそう行っているのである。価値が如何なるものであるかということは、公然看板に掲げられているものではない。寧ろ各労働生産物は、価値に依って社会的の象形文字に転化されるのである。(高畠訳|S.88)

自分の言葉で書こうと思ったが、結局のところ、手っ取り早いので熊野純彦を引けば

交換にさいしてはとうぜん「じぶんの生産物と引きかえに、どれだけの他者の生産物が得られるのか、つまり生産物がどのような比率で交換されるかという問題」が関心の的となることでしょう。それでは交換する者たちは、じぶんたちの労働生産物がひとしく人間労働の産物であることをみとめて、生産物を生みだすために支出された労働時間を(スミスの「一匹のビーバー」と「二頭のシカ」の流儀で)計算し、交換の比率を決定するのでしょうか。そのようなことはありえません。ことがらはむしろ逆なのです。(熊野純彦マルクス 資本論の哲学』(p.42))

交換によって等置されるいわば構造的効果が「人間労働としての」等置なのです。(熊野純彦マルクス 資本論の哲学』(p.43))

価値形態論は、古典派経済学の労働価値説、限定しておけばいわゆる投下労働価値説(商品の価値は投下された労働量によって規定されるとする考え方)を前提とするものではありません。それはかえって、古典的経済学が想定する労働一般(抽象的人間労働)が一箇の形而上学にほかならないしだいを批判しようとするものです。(熊野純彦マルクス 資本論の哲学』(pp.41-42))

マルクス経済学はMMTとは相容れないのだろう

石塚さんの仰るように殆どのマル経学者はMMTを否定するということであれば、マルクス経済学とはやはり、経済学批判を展開したはずのマルクスの上っ面を経済学に回収しただけの、マルクスとは全く別物の何かなのであって、そんな代物がMMTと相容れないのは仕方ないのかな、と思う。

他方、労働力だとか労働時間だとか、価値の源泉と言われ、かつ、上っ面だけ見ると皆がよく分かった気になっているだけの形而上学的概念に、貨幣だとか経済だとかが深く依拠している。

そんな状況において、「実際にひとりの人間が1時間活動したことに対して、(最低でも)○○という価値を認めることにしましょう」という実体を与えんとする(受肉せしむる)のがJGP、と見ることもできるのではないか。労働力だとか労働時間だとかいう、このしばしば上滑りする危うい形而上学的概念に狙いを定めたハックこそがJGPではないか――キリストよ!――なんてマルクスは笑みを浮かべながら述べるのではないか、などと思う次第である。