承前
ちょっと時期を逸しているのだが、またリベラル勢からかなりの反感を買って『情況』が話題となっていた。今回の特集は「ニューウェーブ政党の挑戦状」。表紙を飾るのは立花孝志で私も手に取るつもりになれなかったが、今頃になって気が向いて手に取ってみた。そうしてみると、たまたま先に手を取っていた『世界』7月号の特集1「憎悪の政治学」と共鳴しているように感じたのだった。
その表紙がとてつもなく挑発的であった立花孝志、また躍動の会増山誠のインタビューは、実際に読んでみると端的にどうでもよい凡庸なものだった。むしろ、こうした手合いの言葉は文字に書き起こしてみたほうが、大量のSNS投稿やyoutube動画では全く見えにくくなってしまっている、その凡庸さが明らかになるという点で良いのではないだろうか。なんの魅力もない。
他方、塩野谷、中村、白井聡の各小論、また、栗田英彦×武田崇元の対談は良かった。特に対談は聞き手の塩野谷に向けた批判と叱咤激励となっており、なんだかほっとしてしまった。批判は忘れずに、5年後、10年後に何らかの形で実を結べば良いな、くらいに捉えておくべきではないかと思った。少なくとも塩野谷からしてみれば、せっかく開始した連載は恐らく打ち切り確定であろう内田樹の態度こそ、左派リベラルのウォーキズムにかぶれた連中が報じているノーディベート戦術*1
に他ならず、批判の矛先であるということになるのだろう。
うち、塩野谷が特集に寄せた巻頭の小論について、同誌の他の小論、また個人的に共鳴していると見て取った『世界』7月号の話も織り交ぜて、以下少しだけ書いてみたい。
『情況』2025春号、特集:ニューウェイブ政党の挑戦状に寄せられた塩野谷巻頭小論について
塩野谷の小論タイトルはなかなかひねったものになっていて、『政治を終わらせるために――ニューウェイブと脱コモンセンスの時代に――』*2である。始める、始まるのではなく、終わらせる――これだけだとなかなかわからない。
ポピュリズムという言葉に込められた侮蔑的意味
まず塩野谷は、「ニューウェイブ政党」を自民・公明・立憲・共産・社民などのオールド政党以外の、新興勢力の政治党派であると、とりあえず定義する。このニューウェイブの躍進の背景には、戦後民主主義やアメリカ・リベラリズムのようなこれまで支配的であったイデオロギーが経済的基盤も失い、そして政治的正統性も失いつつある点を挙げるのに異論はない。
些末な点でやや気になった記述があったのだが――それらニューウェイブは自由主義と民主主義の両立をある意味で断念しているように見えると述べている点もその通りと思う。が、それに続けて、それらニューウェイブに投げかけられる「ポピュリズム」という罵倒を「自由主義(リベラリズム)をバックに民主主義(デモクラシー)をハックしている」という意味だろうと述べるのだが、ちょっとだけ錯綜しているように見えて気になってしまった。なんとなく文脈的にはこのままでいいようにも思えもしたのだが、これは塩野谷がというよりも、自由主義と民主主義それぞれの言葉が意味するところを我々一般庶民が、あるいは私自身が至極あいまいに捉えているから錯綜したものになっているように見えているのかと思うのだが、本旨から外れて少し嚙み砕いてみたい。
「ポピュリズム」という言葉に我々が込めている侮蔑的な意味とは、ちょうど『世界』7月号にて鈴木亘にて紹介されていたジャック・ランシエールよろしく、「民主主義への憎悪」として理解されるべきだろう*3。ランシエールの議論はラディカルでかなり入り組んでいるためこちらは鈴木を参照していただければと思うが、これもひとまずはプラトン『国家』における民主主義批判――民主主義が渇望する自由と平等が行き過ぎた結果、既存秩序が攪乱・破壊されることにあると言ってよいだろう。
プラトンにおいては、自由に対立する秩序の維持――つまり統治者と被統治者の区別こそが、理想とする国制あるいは共同体の条件だった。そして我々が自由主義と呼ぶものは形は変えていながらもこの伝統を受け継いでいる――秩序の下における最大限の自由を、だ。このあたりは、国家の役割を必要最低限に限定し、個人の自由と自己所有権を最重視するリバタリアンのうちまともなものは、法秩序の重要性を訴えることからも明らかだ。あるいは同誌新連載の藤森かよこを引用すると、アイン・ランドが描く世界は民主主義的世界ではない。人間はみな平等ではない。ロークのような人間を最上位に置く位階秩序がある*4
、といった具合なわけだ。
「ポピュリズム」という言葉をしばしば侮蔑的に使う者は、既存の法や慣習による秩序内で一定の自由を享受し、かつそれに一定の満足をしているからこそ、それに対して決して少なくない数の民意の後押しを根拠とした異議申し立てにうんざりし、場合によっては憎悪まで向けているのだ。であるから、これを表現するにはイデオロギーを意味するそれぞれの言葉を入れ替えるべきで、「民主主義(デモクラシー)をバックに自由主義(リベラリズム)をハックしている」と表現するべきだろう。なお、このあたりは塩野谷も、この後の議論で例えば、政治的であることは「コード(規範)に従うこと、共同体に屈服すること、他者に屈服すること」と述べており、その視座は十分に精確だろう。繰り返しになるが以上は、塩野谷によるポピュリズムという言葉の簡単な説明に私が感じた些末な違和を述べたに過ぎず、本旨ではない。
塩野谷の政治に対する視座
塩野谷は昨今の『情況』および編集長である塩野谷氏本人の政治スタンスが問われることが多いとのことで、自身の政治に対する視座について文章を続けているのだが、その視座は真っ当のものなのだがブレがなく、その当たり前のことが非常に見えにくくなって多くの人が政治に巻き込まれてしまっていると思われる現在において、非常に鋭いものに映った。
まず第一に、「政治」などというものは本来、人間の生の全体に比べれば取るに足らないものである。このことを忘れてはいけない。それは人間の生の営みの表層に揺蕩う陽炎のようなものにすぎない。人は生きるために政治を生み出したのだが、政治的人間は政治のために生きるようになるのであり、この顛倒は致命的な結果をもたらす。*5
全くその通りだと思う。ここではベタな、素朴かつリベラルな社会感に拠って補足してみるが、別に政治の領域でなければ公共に資する活動ができないわけではない。農家は米や野菜を作ればいいし、板金屋はステンレス板を加工して溶接すればいいし、土建屋はコンクリート基礎を打てばいいし、物書きは今まで誰も見向きもしなかった者を拾い上げて評論でも小説でもしたためればいいし、バンドマンはファズギターをかき鳴らし、ゲームプログラマーは今までなかった小さな新システムアイデアをコード化して動くようにして、聴衆を、ゲームパッドを握る小学生らを魅了すればいい。歴史に名を残すことはできないかもしれない。しかし、政治になんか参加しなくても、ずっと他人と自分の生活を豊かで安全なものにできるし、ずっと他人を、自分を幸福にできる(ここに他人を入れたくないのであれば、全く構わない)。むしろ、そのように政治以外の領域での多くの人の活動があるからこそ、政治の領域に優れた能力を持つ人間が彼らの手を借りつつ、政治の領域で如何なく力を発揮できる。
他方、政治のコード(規範)とは一言で言ってしまうならば、人口統治とそれを基礎づける資源分配が目的だが、目下、この公正な資源徴収と分配に多くの人が絶望しているのは、同誌で白井聡もはっきり書いている通りだ*6。
ただ、ここに私の幼稚な持論を付け加えると、分業化と高度化、そしてマネジメントに次ぐマネジメントの嵐で、もはや我々は我々が行う行為が一体何の役に立っているのかも(自分のためになっているのかすらも)、さっぱりわかりにくくなってしまった。一見便利に見えるテクノロジーは大量の情報(という名の広告)を処理することを我々に強制し、1分1秒に追われつつ品質保証することが求められる。さもなければ即クレームが飛んでくるか、クレームが飛んでくるならまだマシで、次からはお声がかからなくなる。こんなものはアレントが「仕事」と呼んだものとは、心の底から思えない。少なくない人が、(狭義の意味での)政治に絶望するずっと手前で、政治ではない領域で絶望しているのだ。だからこそ政治への逃避を開始し、しかしやはりそこでも我々の行為への物語は提供されることはなく、「日本人」「国民」「人民」あるいは「労働者」「社会人」などというハッシュタグを付与されるまで。こうして2回目の絶望に至るわけだ。
そうした、安直に言い換えてしまえばささやかな自己愛、自尊心が満たされることがないという絶望は、とても幼稚なのものかもしれない。しかしそれは往々にして生まれてから、少なくとも物心ついた時から一度も、であるからタチが悪いし、それを諦めることこそ、自立した個人へ至る儀礼――塩野谷がヘーゲルを持ち出して述べる他者への屈服*7
であるだろう。こうして、表層では屈服したように装いつつ自分だけのミクロストリアを欲して止まない私に対して、私の限界である幼稚な発想によってありきたりな物語を提示することで私は何度目かの絶望に至る――カジュアルなものから重篤なものまで、難しく考える必要はない、昨今の精神病理はたいていこれで説明がつく、あなたも典型例です、と。晴れて私にもあなたにも「自律神経失調症」などといったまた別のハッシュタグが付与される*8。
普段から他人に容赦なくタグ付けすることにいそしんでいるくせに、いざ自分がタグ付けされるとナイーブに傷つくことで、我々は何度でもアトム化されるし、アトム化されなければならない。そろそろくどいが、アトム化とはばらばらにされることではなく、タグ付けによる、この世に生を受けた際に与えられたはずの、それだけですべてが満たされているはずの、名の剥奪だ*9。神の失踪という事態のずっと手前で、我々は何度でも名を剥奪されることでボロボロに傷ついている。
かなり話が脱線してしまったようにも思えるが、塩野谷の理路は整然としていて、他者との出会いによって生まれる人間関係と資源分配をめぐる政治の発生、政治におけるコードによる個人の政治化、コードを奉じる共同体内でのエコーチェンバー化、コードへの違和を表明したものへの共同体によるキャンセルについて淡々と記述し、必要なプログラムは「政治の廃止」であると説く。また、キャンセル・カルチャーは、この「政治の廃止」に至る契機となりうるという点でのみはポジティブに評価できるとまで言っており、たくましい限りだ。
「政治の廃止」へのエクソダスとその危うさ
ともあれ、こうして規定されるナイーブな「永遠の青年」とでも言って差し支えない個人が、せいぜい異世界転生ライトノベルやアイドルへのプラトニック・ラブに逃避するくらいに留まれれば随分と健全な方で、その極北においては『世界』7月号、ナオミ・クライン、アストラ・テイラーにて論じられるとおり、以前は世俗的であったシリコンバレーのエリートたちが、興味深いことに突如としてイエスに帰依しつつ*10
あり、自分たち一握りの人間だけが、惑星改造された火星で生き延びるのだと極めてクソ真面目に考えるに至っているわけである。
塩野谷もまたこうした危険性を精確に理解しているように見えるが、それでもなお「政治の廃止」への道程を歩まんとする姿勢はやはりたくましく、より一層の危険に満ちているようにも見える。
なすべきことは、屈服せず戦うべき他者の範囲を全世界にまで拡大することだ。こうして人は、全世界の否定という終末的イメージを抱くようになる。だがこれを、現実でそのまま行動に移しても黙示録的破壊にしかならないし、壊すことしか能がなければ誰もついてこないだろう。全世界の否定という終末的イメージを極限まで突き詰めれば、この観念は存在しない世界、すなわちユートピアへの希求へと反転する。ここまで到達してようやく、個人は現実世界と完全に切断されたユートピアに対する想像力を獲得することができるのであり、自身における「政治の廃止」へと辿り着くことができるのである。*11
さらに塩野谷は、共同体の政治それ自体にも同様の構造があてはまり、近代における教会の失墜とともに露出した死の恐怖を唯物論的無神論や主権国家という新しい政治システムで隠蔽しようとする試みは綻びを隠し通せなくなってしまっており、神の失踪という絶対的恐怖逃げずに向き合うことで、近代以降に生まれたあらゆる政治体制を支持せず、共同体を「政治の廃止」へと導く道が拓かれる、と説く。他者たりえない神を探す旅が始まる*12
。
アンチテーゼに熱狂することのつまらなさ
しかし、その神を探す旅のひとつが、ロングテール手数料ビジネスで資産家から貧乏人までのはした金をかき集め、それを元手にゲーテッド・シティに閉じこもり、1日でも早く終末が来るようにとテクノロジーを加速させ、そのテクノロジーを既存秩序のハックに利用し破壊することにいそしむ、といったものなわけだ。
敢えてこう言うが、一言で言ってしまえば反動的(アンチテーゼ)の域を出ておらず、何故そんなつまらないものに熱狂できるのだろうか。
存在論のレベルであらゆる政治体制が支持できないのなら、現象のレベルの政治ではどこと接近してもいちゃついてもよいはずなのに、実際には特定のイデオロギー的立場にしばしば憑依してしまう、その恣意性とは何か、ということである*13
塩野谷は紙面の関係上、この問いを投げるところで文章を締める。この問いは既存の使い古されたイデオロギーを往々にして選択してしまう恣意性に向けられているものと思われるが、アンチテーゼを選択する場合においても事態は同様だろう。たぶん、その理由のひとつは既に塩野谷が書いてしまっており、共同体内ではこうして彼らにとって政治とは、いかに”適切な”言葉で鮮やかに物事を説明するかという脊髄反射を競うゲーム*14
をしているのだが、アンチテーゼを提示する者もまた、これを敢えて”不適切な”言葉を使って遊んでみる、程度のことをしているに過ぎない。
世間を見渡せば事態はより愚劣で、右も左も、上も下も、それはキャンセルだ!と告発するゲームに明け暮れており、いや、その告発自体はとても大事なのだが、告発者は分け前を寄越せと言っているのではなく、相手を叩き潰すことを目的としているのは明らかではないか。この殲滅戦ゲームにおいては、如何に卓越した言葉を駆使して相手を野蛮人に仕立て上げることができるかがその勝敗を決めるまで、である。
強いていうのであれば、我々に必要なのは熱狂(passion)ではなく受苦(passion)ではないのか。
既存の世俗的政治システムが神の失踪、死の恐怖を隠蔽できないのと同じように、私ごときが思い至ったまた別の政治システムや物語が私を救済することは永遠に訪れない。私の世俗での試みは必ず失敗する。仮に、私が火星に移住できたとしても、移住するや否や、こんなはずではなかったと絶望が訪れる。ユートピアとは観念上のものでしかないのであり、現実にそんなものはどこにもないしその創設の試みは必ず失敗する。仮にありうるとするなら、我々はこの身体の軛から逃げ出すどころか、素粒子で構成されない世界を構想するレベルで、世界のあらゆるものを一切の無から作り出す必要がある。ニーチェやバタイユを愛してやまない暗黒啓蒙者達はこの意味で十分に卑近で世俗的なのであり、ニーチェの「超人」を持ち出すなど片腹痛しである。
まして、ニューウェイブ政党の凡庸さといったら、である。彼らには差別的だとかなんだとか言ってやる前に、(決して冷笑するのではなくクソ真面目に)おまえの言っていることは極めてつまらない、お前には才能がないようにしか見えない、と言ってやるべきなのだ。
そうしたものよりはクライン、テイラーが持ち出す「ここ性(ヒアネス)」のほうが、それがまさに受苦から産まれ決して受苦から逃げないものとして魅力的に映る。簡単に補足すると、東ヨーロッパにおけるブンドは現地に残ってユダヤ人コミュニティを維持することを志向し、パレスチナに入植してユダヤ人国家を設立することを目指したシオニズムと対立していた。中世ドイツ語を基盤とするイディッシュ語を持ち出している点もヘブライ語を好むシオニストと対照的である。
東ヨーロッパでは、ファシズムとスターリン主義による殲滅以前、ユダヤ人社会主義者たちの労働者総同盟(レイバー・ブンド)が〈ドイカイト(Doikyayt)〉――「ここ性(ヒアネス)」――というイディッシュ語の概念を軸に組織化を行なっていたモリ―・クラバッブルは、この見逃されてきた歴史についての近く出版される著書を書き上げたところだが、〈ドイカイト〉を「自分たちの死を望むあらゆる者に抗い、みずからが暮らしているその場所で、自由と安全のために闘う権利として定義している――安全だとされたパレスチナやアメリカ合衆国へと逃避することを強要されるかわりに。*15*16
他方、世間は殲滅戦ゲームに明け暮れているとはいえ、各々が各々の受苦をその契機としていることもまた、明らかである。受苦のただ中にいる者が提示する貧相でつまらない解決方法は唾棄してよい――その方法は受苦を取り除くものにはならない!――が、それに至る契機となった受苦はキャンセルすることなく共有すべきだろう。ランシエールは、「コンセンサス」とは、あらかじめ議論の場に立てる人々のみを「当事者」として想定し、それ以外の者を排除する発想であって、この「コンセンサス」によって「政治の消滅」がもたらされると述べる*17。多少乱暴に言ってしまえば、塩野谷の目指す「政治の廃止」こそ、ランシエールにおいては「政治」に他ならない。
(中略)重要なのは、憎悪への(真摯な)対抗、憎悪への(理性的な)批判、という問題構成の中で、それでも他者の知性を前提とすることである。劣った相手を教え導こう、あるいは切り捨てようとするのではなく、むしろあらゆる人間の知性の平等から出発して思考することである。*18
逆説的だが、平等を目的とすることが社会に理不尽に偏在する不平等の、受苦の源泉となっている。この平等の前提という道徳だけが唯一、受苦に対する鎮痛剤であり、既存の政治を廃止し、ようやく政治を始めさせてくれるもののように思える。
文章の一つ一つ、行いの一つ一つのなかに平等の局面を捉えるという、この常軌を逸した道を執拗に示し続ける以外に、すべきことは何もない。平等は到達すべき目標ではなく、出発点であり、どのような事態においても維持すべき前提なのである。心理が平等を弁護することは決してないだろう。平等はそれが確認されることのなかにしか、また常にいたるところで確認されるという条件でしか、決して存在することはないだろう。平等は民衆にすべき演説なのではない。それはただ会話のなかで示すべき一つの例、あるいはむしろいくつもの例であるのみなのだ。平等は、それを共有しようとする者とともに最後まで守らなければならない、失敗と隔たりの道徳である。*19