rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

プラモデル作成の過程を載せるつもりですが、気ままに書きます

徒然MMT[5] - MMT以前の国民[nation]について

承前

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アナーキー叫べば 変わると思った

チェリーボム叫べば 壊せると思った

絶望が火を吹いて 怒りへと変わっても

信じたい あの気持ち

革命家はずっと 嘘をついてたよ

発明家はずっと 偽物作ってた

真っ黒な満月は たぶん月の裏側

見えたけど 見えたけど

本日2023年11月17日に行われた、藤井聡&ビル・ミッチェル『インフレ時代・日本の「積極」財政論』新刊発刊記念セミナーに参加してきた。在宅勤務からの移動では間に合わないので、久々に秋葉原の職場に出社してから残業なしでの移動。

結論から書くと、私にとっては大変満足のいく内容だった。久しぶりに筆を取りたい。

素朴な疑問〜何故この二人が共同研究をするに至ったのか〜

私は本セミナーに参加するにあたって、次のような質問を用意していた。

私はお二人が共同研究をするに至ったこと、それが長年疑問でした。恐縮ですが、大変に単純化して述べれば、右派の藤井先生と左派のミッチェル先生が手を取ることに。しかし、今年に入って出版されたミッチェル先生の共著の日本語訳本(『ポスト新自由主義と「国家」の再生:左派が主権を取り戻すとき』)を読んで左派として真正面から国民国家[nation - state]を論じていることを知り、新自由主義、ないしは国民不在のステート・キャピタリズムに対する危機感、この1点においてお二人が深く通底しているのだと認識を新たにしました。

新古典派経済学よろしく、我々が経済に対する神話ーー誤った知識ーーを植え付けられこの新自由主義に加担すらしているのはいうまでもありませんが、経済政策以外の政治においても複数の正義が乱立し、同じ国の中に住む人らがいがみあい、戦争でもない限りはまるでnationーー国民ーーなどというものが実感としても感じられることのない現在において、(可能であれば日本の)左派、右派、あるいは国民に対して伝えたいメッセージはないでしょうか。

結果として質疑応答の時間はなかったし、この質問に対する直接の回答が述べられることもなかった。それでも、対談から細かな経済理論の話になるのではなく、自然と国民国家の話になっていったことが嬉しく、満足だった。

藤井先生の話を聞き続けるミッチェル先生

セミナーは二部構成となっていて、前半は藤井先生による本日出版された共著の簡単な紹介。後半は藤井先生、ミッチェル先生による対談の形式を取った。

ここでは共著の内容に深く触れない。それは書(『インフレ時代の「積極」財政論』)を手に取っていただければ良いと思う。

それでも簡単に述べるなら、前半の藤井先生による説明は、一言で言えば「財政リフレ」派の話である。さらに、敢えてMMTの立場から見れば引っかかる表現を抜き出せば…

  • 曰く、インフレには悪いインフレ(コスト・プッシュインフレ)と良いインフレ(デマンド・プル・インフレ)がある

  • 曰く、良いインフレに導くための財政政策のひとつにJGP(Job Guarantee Program)があり、これは公務員の積極雇用や賃金維持を意味する

などなど。これを耳にしたXにおける経世済民クラスタが卒倒する、あるいは劣化の如く批判する姿が目に浮かぶ。「そもそもMMTにおけるインフレーションとは新古典派経済学のいうインフレーションとは定義が異なる」。「JGPの理解がまるで間違っている」。いくらでも突っ込むことはできるだろう。不勉強な私だって言いたいことはたくさんある。

しかし、そんなことは経世済民クラスタが騒ぐまでもなく、ミッチェル先生こそが言いたいだろう。ミッチェル先生は黙って藤井先生の話を聞き続けていた。そもそも非裁量的財政政策をこそ重視するMMTerが、あるいは、例えば10年以上もブログ(https://billmitchell.org/blog/)で精緻な議論とMMTの啓蒙を続けている人が、その共著のタイトルで『「積極」財政論』などと銘打っているのだ。上記のような批判をすることが、本も意図も読めておらず、ただの野暮なのだ。藤井先生もそんなことは鼻から承知での振る舞いだ。二人の共同研究は、学際的である以上に覚悟を伴って極めて政治的なのである。

MMT以前の国民国家

後半の対談でも基本的には共著の内容に沿って、日本経済と世界経済の比較、日本が採るべき財政政策についての話が進んでいった。しかしながら(私の個人的な興味も相俟ってのことだが)、本対談のハイライトは話題が国民国家に自然と移っていった1点にあろう。

藤井先生は、(財政)政策が一体なんの目的で行われるのか、誰のためのものなのかという疑問を対談の終盤で投げかけた。ミッチェル先生もまた、正しい知識を持って政策が誰のためのものなのかを鑑みて(例えば選挙における投票などで)行動してほしいと述べた。

極端な話を出すと、かつてTwitter(X)で見かけた話だが、MMTのレンズを通せばこれを利用して強固な軍事国家建設に利用することも可能だ、というのがあった*1

私たちは例えばカントを引いて、直ちにこれに疑問を投げかけることが可能だ。カントは『永遠平和のために』において常備軍の設置の禁止を説いたが、これは常備軍の設置が隣接国間での無際限の軍事費増大への繋がり、ついには平和より短期の戦争を選択する原因となる、と。他方では国民が自発的に訓練を受け自国から外敵を守ることを否定したわけではない。カントの時代と違って現代では常備軍は当たり前になってしまっているが、基本的な考えは変わらない。国民の幸福のために、どこまでの軍事支出が許容されるないし適正であろうか。とりわけ、実物資源の制約下と軍事以外の政策課題に直面している状況にあって、これ以上軍事にどれだけ実物資源を投入することが、国民の幸福に資するのだろうか。新古典派経済学が神話に過ぎないなら、過度の軍事支出が必要という議論が何故神話でないと言い切れるのか*2

西部邁の言葉を借りれば、デマとはデマゴギー(民衆煽動)のデマのことであって、ステート・キャピタリズムの代わりにステート・ミリタリズムを導いたところで、また別のデマに誑かされているだけに過ぎない。いずれもステーティズムに変わりない。MMTは通貨主権を有する政府の能力を正しく理解するための知識を提供している。そして国民である我々は国家との協働を実現するため、経済学に限らず正しい知識と力を身につける必要がある。それなくては、詰まるところ、国家(state)しか残らない。

敢えてこのように言うが、二人は精緻な議論はかなぐり捨てて、我々に行動を促した。それを受けて我々はどう行動するか。日本語圏Xにおいて経世済民クラスタによって行われている罵倒の応酬など論外である。そしてこれは私の選択だが、当然正しい知識を身につけるには精緻な議論を避けては通れないのであるから、週末は街宣車に乗りつつも、普段は書室に篭ることにしよう。今しばらくは、『正義論』に対しての多くの批判を受けその考えを修正していた晩年のジョン・ロールズ、また、そのロールズやコスモポリタリズムを提唱するピーター・シンガーやトマス・ポッゲらの議論も参照しつつ、(リベラル・)ナショナリズムの立場から政治哲学を論じるデイヴィッド・ミラーの議論を参照することになるだろう。

ビル・ミッチェル、藤井聡サイン

*1:真偽は不明だが、ミッチェルかランダル・レイが、MMTは純粋な経済理論であって、これを右派が軍事支出に利用することも可能だ、と言ったこともあるらしい。ホント?

*2:他方、カントが常備軍とともに禁止すべきだと提唱した戦時国債MMTのレンズから見たときにどうなるのか、という疑問も同時に湧くのだが