rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

プラモデル作成の過程を載せるつもりですが、気ままに書きます

Flotsam and Jetsam - 日本的身体というアメーバ

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Everything I know is in the past

And everything I see is now

(Everything / Flotsam and Jetsam)

daisippai.hatenablog.com

しげのかいりさん、左藤青さんの論考が、朝からズドンと胃に効いた。以下はただの落書きなのだが、なんとなく。

「なんでもよく、どうでもいい」という日本的身体というのは素朴に直感できるもので、とりわけ政治を振り返ってみてもそうだなと思う。私が成人して政治的なものにようやく触れた00年代以降、小泉・竹中による郵政民営化、2大政党制だ、マニフェストだ、などと浮かれて誕生した民主党政権、その後の安倍長期政権にせよ、専ら気運だけが問題であって「なんでもよく、どうでもいい」という表現はしっくり来る。

最近に至っては、自民と維新が典型的だが、選挙の結果こそ全て——明け透けなく「勝ち馬に乗る」のがさも当然で良いことであるかのように振る舞う政党、政治家、その支援者らも珍しくない。

昨年の7月、山上は日本的身体を確実に脱臼させたはずだった。しかし、前半戦の終わった統一地方選の結果を見ても(見なくても)わかるように、日本的身体は至って健康そのものである。異物である山上をなんとか吐き出そうとする仕草と、コロナはただの風邪と言ってのけてコロナ以前の日常を求める仕草はコインの表裏である。むしろ、脱臼した日本を治してのけた自民党支持者は清々しくすらある。

他方で、一部の野党支持者は維新や国民民主のことを野党のふりをして与党のアシストばかりする「ゆ党」などと揶揄するが、しかしそもそも、日本に「なんでもよく、どうでもいい」「自民党」以外の政党があるのだろうか。

既成野党が存在感を示せずにいる中、目下のところ内輪で揉めに揉めている旧N党だが、その支持者らのバカさ加減といったらない。陰謀論ネトウヨ仕草に酔いしれて、本当に日本を変えるのだと息巻いている。参政党も大した違いはない亜種だ。

そういえば、私の知り合いにも「なんでもよく、どうでもいい」政治に一石を投じようと先の参院選ではガーシーに投票した人というのがそれなりにいたのだが、その裏にはZ李がいてヤクザがいる、恐喝で凌ぐだけの反社野郎どもの手先でしかない、ということには無頓着な程度まで徹底して、「なんでもよく、どうでもいい」のである。

ところで、文中では日本のポストモダニズム、さらに京都学派を批判する柄谷行人が引かれるのだが、しかしその始祖たる西田幾多郎は図らずとも日本的身体なるものを言い当てていたのではなかろうか。

「AはBによって規定されると同時にBはAによって規定される」

絶対矛盾的自己同一。矛盾でしかない本概念であるが、池田善昭はこれを樹木の年輪に例え、「環境は樹木を包み、樹木は(時間を生むという生物的な営みにおいて)環境を包む」と説明した。

さらに西田は書簡「国家理由の問題」にて、本概念を敷衍して天皇制を論じる——「国家を超越する主権は国法を規定すると当時に、主権は国法によって規定される」。本問題を論じた著書を高く評価しているamazonレビューを読むことができるが、はっきり言って西田からして馬鹿者ではないかと思う。

これを認めれば、なんでも言えてしまうわけだ。例えば、「憲法9条が自衛隊を規定し、自衛隊憲法9条を規定する」などと言ってみよう。これこそ、しげの&左藤が述べているのとまた違った、しかし根本の部分では通底している「なんでもよく、どうでもいい」ではないか。

(中略)小林秀雄のように原理原則にこだわらないという原理原則に則っている。この原理原則とはすなわち、「護憲論者」のように原理と現場とのズレをうやむやにする「制度」である。この意味では日本人はほとんど全員「護憲論者」でしかない。一言で言ってしまえば日本の言論空間=日本的身体にとっては、あらゆるものが「なんでもよく、どうでもいい」からである。

思えば、西洋ではドゥルーズ&ガタリが「器官なき身体」概念を提唱したが、日本にはそもそも有性生殖が有り得るのだろうか。しげの&左藤は日本的身体を健忘症と言い当てたが、それもまた実は人間から見た姿に過ぎないのではないか。

先の池田は絶対矛盾的自己同一を樹木の年輪に例えたが、それも少しかっこよく言い過ぎていて、実態としては、例えば赤痢アメーバの方が近いのではないか。

赤痢アメーバはヒトによって規定されると同時に人は赤痢アメーバによって規定される」

日本が健忘症であるというのは、そもそも有性生殖を知らない(できない)、分裂増殖を繰り返す原生生物の様態に似ているのではないか。そしてそれは潔癖症とは異なる。そうではなくて、西洋の「器官なき身体」が「性器なき性交」であるなら、日本の「器官なき身体」とは「脳なき物語り」なのではないだろうか。

しかし福岡伸一なら、それこそを生命そのものとして肯定するかもしれない。そうして、時間が紡がれるからだ。