rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

プラモデル作成の過程を載せるつもりですが、気ままに書きます

徒然BI[2] - BIの陥穽、その消極的態度

承前

コウモリおじさんさんに『JGPの理念とは?』と問いかけられてみて返したらさらに返信いただいていて、きちんと返せておらず遅くなったけど書いてみたい。と言っても1/2くらいが昔の記事の切り貼りだし、繰り返し読ませてしまう部分もあるので申し訳なくもあるのだけど…。

何故BIやJGPに言及するのか

これは個人的には素朴に賛同したい気持ちも強いのだが、実際の社会はロールズの訴えた格差原理:「最も不利な立場におかれた人の利益の最大化」を目指すようにはできていないわけで…。それでこれはものすごく怒られるかもしれないのだけど、はっきり言えば、生活保護の水際対策が行われるようなこんな社会でどうしてBIなりJGPが実現できるだろうかと思われてしまう。

ただし、それでも私がBIやJGPに言及するのは、その理念からは学ぶことが多くある、その理念を抱えて長期的目標に設定し、現実の社会制度の漸次的改善を行うことには意義があるだろうと思うからだ。BIを訴えながら生活保護受給の資力調査緩和も同時に訴えることは矛盾しないし、JGPを訴えながら容易な失業保険受給を提案したり教育訓練中の生活所得保障を訴えることも矛盾しない。貧困の解消や分配的正義の長期的な視座を与えてくれるものだからこそ、言及しているつもりだ。だから、今すぐにでもUBIだろうがJGPだろうが実現しなければならないと考えている人にとっては、私のような態度は軟弱で唾棄すべきものに見えるかもしれない。

BIはもっと早くに実現しそうな気もするけれども、日本でJGPなんてやろうとしても、20年30年かかるだろう。

「食い逃げ」の真意と、MMTerへの/自称MMTerの誤解

一応、にゅんさんの肩を持つと、BIを実現するのに国債を大量に発行した際、その国債金利で儲けるのは資本(家)という構図について、にゅんさんは「食い逃げ」と称しているものと思われる。食い逃げしているのは資本(家)であって、それ以外の誰でもない。ただし、一見すると、BIのみで生計を立てている人を咎めるかのような、俗流のフリ―ライダー論にも似たような発言に見えてしまうので、そんな言い方をしても嫌な思いをしてしまう人も多かろうにと、私も思わず眉を顰めてしまうほど、好きにはなれない表現ではある。資本を太らせる行為でもあるよ、とか、他の言い方があろうかと思う。

他方で、「物価が亢進してしまう」と「人が労働から離れる」という点には注意が必要だと思われる。

まず、「物価が亢進してしまう」について。

ここではミッチェルにのみ言及するけれども、ミッチェルは確かに(およそ日本円で言うなら月に20万円とか30万円のような高額の)UBIが達成してしまった場合には、ディマンドプル・インフレによる破壊的な物価上昇スパイラルが起こる可能性について予測している。これに関しては、UBIを目指す人の一部にとってはそれは許されないという人もあろうけれども、負の所得税や給付型税額控除が、現実的な選択肢としては代替策として挙げられようかと考えている。

ただし、ミッチェルはその破壊的な物価上昇スパイラル以前に、新古典派経済学に基づく予算中立性の下では、それだけで生活を送るのに十分な金額のBIは達成できないだろうということを指摘していることの方が、よっぽど重要だ。

Under budget neutrality, the maximum sustainable BIG would be modest. Aggregate demand and employment impacts would be small, and even with some redistribution of working hours; high levels of labour underutilisation are likely to persist. Overall this strategy does not enhance the rights of the most disadvantaged, nor does it provide work for those who desire it.

[拙訳] 予算中立性の下では、持続可能なBIGの最大値は控えめなものに留まるだろう。需要と雇用への影響は小さく、労働時間の再配分をいくらか行ったとしても、高水準の労働力の未利用が続く可能性が高い。全体としては、この戦略は最も不利な立場にある人々の権利を強化するものにはならないし、望む人に仕事を提供するものでもない。*1

またMMTではないが、後藤玲子は、フィリップ・ヴァン・パリースのBI論において、あるいはアマルティア・センに絡めた分配的正義の文脈において、新古典派経済学的な就労インセンティブ議論に基づいている限りは、極めて低いBI水準が社会的に推奨される可能性を否定できないという指摘を行っている。

すなわち、BIの十分な高水準を目指したとしても、それを実現するための個々人の効用関数が新古典派経済学で仮定される基本的性質を満たすのであれば、より低い課税率(代替効果が現れにくい)とより低い給付水準(所得効果が現れにくい)の組合せが推奨されるだろう、と。事実、アメリカで提出された負の所得税(NIT)に関する提案の多くは、低い給付減少率と低い最低保証レベル(日本の生活保護水準未満!)に特徴づけられると述べている*2

むしろ出来る限り高額のBIを、あるいは社会福祉制度の実現を目指すのであれば、マクロの面から見ても、ミクロの面から見ても、新古典派経済学がものすごい障壁として立ちはだかっていることを、まず認識しなければならないということをMMTerであるミッチェル(および後藤)からは学ぶべきだと考えている。

次に「人が労働から離れる」について。はっきり言って、これを言っているのは自称MMTerないしはもぐりMMTerだと思う。所得効果が現れにくい給付水準が望ましいと言っている新古典派経済学者と全く同じ理路に立っていて、馬鹿げているとしか言いようがない。

ミッチェルはどう言っているかというと、さらにワークシェアリングが加速して、二次労働市場が活況することを危惧している(念のため細かいことを言うと、ここでのミッチェルは高額BIの達成は困難で、生活の足しになる程度のBIが実現した場合のみの話をしている)。

Second, it is highly unlikely that labour participation rates would fall with the introduction of the BIG, given the rising participation by women in part-time work (desiring higher family incomes) and the strong commitment to work among the unemployed. But there could be an increase in the supply of part-time labour via full-timers reducing work hours and combining BIG with earned income.

[拙訳] 第二に、(家計収入の向上を望んで)女性のパートタイム労働への参加率が上昇していることや、失業者の間における強い労働意欲を鑑みると、BIG の導入によって労働参加率が低下する可能性は低いと考えられる。しかし、フルタイム労働者がBIG と収入を組み合わせて労働時間を短縮し、パートタイム労働者の供給が増加する可能性がある。*3

他方、1.) BIが実現すれば「こんな仕事辞めてやる!」と劣悪な労働環境の職場に辞表を叩きつけてやることだってできるじゃないかと述べる人がいる一方で、2.) BIが実現すればその分だけ給与や各種手当の切り下げや廃止を目論む経営者もいるじゃないかという人もいる。私は端的にどちらも真だと思っている。ただし、1.)は十分高額なBIの達成が条件である一方、2.)はBIの金額に因らず常に起こり得るもので、専ら低額のBIの際に支配的に作用する。この2.)についてもミッチェルは言及している。

Third, employers in the secondary labour market will probably utilise this increase in part-time labour supply to exploit the large implicit BIG subsidy by reducing wages and conditions.

[拙訳] 第三に、二次労働市場の雇用者はこのパートタイム労働者の供給増加を利用して、すなわち、BIG補助金が生んだこの状況を悪用して、賃金や条件を引き下げる可能性がある。*4

これらを私なりにイメージ化したのが次の図である。

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世帯当たり月10万円のBIが達成した際の収入分布イメージ

図は世帯収入の相対度数分布で、左が1985年、真ん中が2018年を示していて、右が世帯当たり月10万円のBIが達成した場合の私の勝手な分布イメージである。

ざっくり言うと、当然BIの支給によって収入0円近傍の世帯はなくなるのだが、ワークシェアリングの進展と二次労働市場の活況、また資本側による賃金引下げによって、中所得世帯の世帯収入の押し下げも同時に起こる。

私は、最貧困層が激減することを鑑みればそれでも実施する意義はあるのだと考えるけれども、はたしてこのような予想を多くの人が受け入れるのか、という点については疑問が残る。さらに言えば、多くの人がBIに期待していることは、この程度のことなのだろうか。もっとものすごい革新的なことが起こると、期待していないだろうか。

BIは平等を実現すると言えるのか

こちらについては、不正義の是正という観点からは、志賀信夫は厳しく指摘している。

だが、普遍主義的システムであってもBIであっても、個人的差異性に基づく差別とその差別に由来する社会的不利性の除去を根絶できるわけではない。これらは差別の積極的な排除には必ずしも対応していないのである。特定の属性をもつ個人、特定の集団、特定の地域に対する差別と社会的不利性から貧困が生起することも多いという事実に向き合うならば、選別主義的制度から普遍主義的システムへ(あるいはBIへ)という単純な枠組みだけでは貧困問題を緩和・解消できるとは限らない。

普遍主義的システムやBIが実現しても、女性や障害者、性的マイノリティ等への差別、民族差別、地域差別等は解消されない可能性が高い。つまり、いくつかの重大な不正義は是正されえないということである。また、例えば、育ちのなかで家計支持能力の形成が阻害されてきた人物が、経済的困窮状況に陥ってしまった場合の自己責任論と差別はさらに強化されてしまうかもしれない。〈社会としてやるだけのことはやったのだから、あとは自己責任である〉というエクスキューズを与えてしまうかもしれないからである。*5

また、フィリップ・ヴァン・パリースは、その独自のBI理論を提唱する中においても、BIに正当性を持たせるためにもBI以外の施策によって積極的に特定の個人・集団における社会的不利の緩和・除去が求められると述べている。

ベーシックインカムの最大化は非優越的多様性基準という制約の下で行われる必要があるので、この制約条件を満たすのを非常に容易にしてくれる数々の政策に特に注目せねばならない。(予防医療のような)現物の普遍的給付、または、(例えば、学習遅延者に対する特別な教育支援といった)ハンディキャップを阻止する特別な給付、さらには、特別なニーズを持つ人々に対する機転の利いた効果的援助の精神を促進すること。これらはごく一部の実例に過ぎない。*6

強いて言うなら、BIは消極的な社会的不利性の除去に留まる。無論、次のように言うことはできる。すなわち、BIも実現できていないし、特定個人・集団が社会的不利益を被っている現状を変えられるような積極的な施策も実現できていない。そうであるなら、BIがない社会よりBIがある社会のほうがマシですよね、と。

ただし、そのBIが〈社会としてやるだけのことはやったのだから、あとは自己責任である〉というエクスキューズとして働いてはならないことと、常に戦っていくこともまた求められる。言い換えるなら、経済政策としても、社会的正義としても、BIは消極的選択であって、常にセカンド・チョイスであることを忘れてはならないということである。

MMTが何故労働者に拘るのか

まず一応述べておくと、BIに否定的なMMTerであっても、生活保護に相当するような生活保障制度は不要でJGPさえあればいいなんて言っている人は見たことがない。そういう人がいるなら、私は敬遠したいし、必要に応じて批判する。

ただ、ここでこうもりおじさんさんが、MMTが何故労働に拘るのかという疑問というのは、尤もにも見える。これは私見だけれども、こここそMMTが経済学であるところに所以するのだと思う。

すごく大雑把に言ってしまうと、アダム・スミスは人間社会の経済活動を「土地(自然と言い換えても良い)」「資本」「労働」の3つの要素で成り立っていると指摘したけれども、スミスが指摘するまでもなく、人々が無意識にかはたまた幾分かは意識的にかそれを感得して経済活動を行っているという事実は、現代でも変わらないし、これからも早々に変わることはない。他方、専ら生産の主役は労働者であるにも拘らず、生産物の多くを分捕っていくのは資本(家)であるという転倒した社会構造がある。

これらの前提に基づけば、次の2つの方向性が導かれると思う。

  • 労働の供給者である労働者を守らなければ、この社会は持続可能ではない。
  • 専ら「生産と利潤」=「資本の際限なき蓄積」に傾いている人間社会の価値判断が、持続可能性と相反する。

だからこそ労働者に拘ることになる。そして、生産に寄与しないなどとして労働市場から弾かれている子ども、高齢者、障害者らこそが、労働者にすらなれない=半永久の失業者という意味で、資本主義の最大の被害者だということになる。

個人的に子どもは労働市場に投入せずに守らなければならないと思うので子どもは除くが、チャーネバが「労働者」と言ったとき、そこに高齢者や障害者が入っても構わないし、むしろ入っていなければならない。チャーネバは絶対に含んで発言していると私は思っている。

幾分挑発的な言い方になるかもしれないが、「労働者」というくくりからは脱しておらず,福祉というには半世紀近く遅れているという弁に対しては、「労働者」という言葉に先立つ、生産に寄与するかしないかという我々自身の近視眼的な価値判断こそが我々の最大の敵であって、労働をもっと広い目で見て、子ども、高齢者、障害者らが肩見の狭い思いをせずに生きていける社会を構築しようという理念が、MMTには、あるいは、本当の意味での経済学にはあるのだと考えている。

また言い換えるなら、社会福祉や分配的正義の観点から、子ども、高齢者、障害者の権利保護は当然できるのだと思うけれども、専ら「生産と利潤」に傾いている我々の価値判断にメスを入れるという意味では、MMT/経済学にこそメリットがあるのではないか。