承前
やっぱMMTの考え見てると、我々は何に支出するべきかっていう大原則と優先順位ってしっかり考えなきゃならんのでないの?
— 左翼モデラー rory (@RockofBuddhism) 2021年12月4日
一応言っとくと、その時にですね、BIは必然的に優先順位落ちるんですよ。
なんで足が不自由な人のために車椅子用意するのより、BIが優先されるんですかって話なわけ。
なるほど捕捉が困難な困窮者にも間違いなく現金を渡すことよりも、行政が捕捉した困窮者に対応することのほうが優先順位が高いとお考えなんですね。私はまったく同意できませんが、そのような考え方が存在することは理解しました。 https://t.co/ESMcBO2mmD
— GiGi (@gigir) 2021年12月5日
MMTはペイゴー原則には従う必要がないので必要であれば両方やればいい。
— 🐽蝙蝠🦇〰️💣💥 (@koumori_2011) 2021年12月5日
もしベーシックインカムよりも障がい者の為のスロープが優先されるとするとその理由は何か?が問題ですね。
だいたい財が違うので比較対象になりません。 https://t.co/O5c0qeG668
BIをやると足が不自由な人に車椅子用意出来なくなるんですか?健常者が車椅子を買い占めて転売するとか?? https://t.co/gus98UFSBC
— 💴川谷 ユウジ💴 (@ien0RS0ZuuIQLOW) 2021年12月5日
いろいろコメントが付いているのでなんと返そうかなと少し考えあぐねたのだが、少し長文になるがブログで応答することとする。
ここで言っているのはヴァン・パリースにおける定式化されたBIのことであり、もう少し言えばBIの制約条件のことだ。この部分を書かないといけないだろうと思う。ごく簡単に言うと、パレート最適から別のパレート最適への状態遷移のとき、誰かが割を食わなければならないのは明らかなのだから、基本的な方策を予め定めておかないかという話でもある。
また、この定式化されたBIは、選別的な個別の社会保障も普遍的な社会保障としてのBIもマキシミン化を目指そうというものなので、仮にこの枠組みに合意が得られれば、いずれを要求する者にとっても決して悪くない話だと考えている。まぁ、より簡単に言うなら、BIのために既存の社会保障を止める必要はないし、むしろ重要になるということなのだが…。
というか、たぶんいいねをつけている人も、私が考えていることとは全く無関連に、別の解釈でいいねをつけていた人も多いのかなと思う。
ヴァン・パリースによって定式化されたBI
ヴァン・パリースはその著書で、ロールズらを援用しながら公正な社会の条件を次のように提示した。
- A.) 強制や暴力などによる侵害なしに諸権利がうまく執行されるような構造が存在すること(権利に関する安全保障の確立)
- B.) 第二に、その構造の下で、個人の自己所有権が確立・確保されていること
- C.) 以上の 2 条件の制約の下で、各個人は己が為したいと欲するであろうどんな事であれ、それを為すための最大限可能な機会が保証されていること
のっけから何を言っているのかわからないという方は、これについては以前に記事にしたので*1そちらを参考にされたい。ここではこれを前提として続ける。
さらにヴァン・パリースの著書の訳者である齊藤拓による解釈に助けを得ると、次のような定式となる。
- 目的関数:Max. 一人あたりのBI(現金部分)
- 制約条件Ⅰ:形式的諸自由の保護
- 制約条件Ⅱ :機会平等およびベーシック・ニーズ充足
- (制約条件Ⅲ:税制の予期可能性)*2
ここでポイントを述べると、ヴァン・パリースによって構想されたBIは、最低限の生活費をカバーする基礎所得であり、その上で様々な上乗せを行うという制度構想ではない。そうではなく、公共財や現物サービスの支給に加え、特別なニーズを持つ人々への限定した給付を行ったうえでの残りを、BIとして給付するべきだという点にある。
パレート最適下の政府支出が実現している時、どう追加支出するべきか
以前の記事ではまた別の説明を行ったが、ここでは違う問いかけをしてみよう。
政府支出がパレート最適である、あるいは、これ以上の支出は制御不能なインフレになる可能性が限りなく高いと推測されているインフレ制約ギリギリの政府支出が実現できており、かつ、一定水準のBIが実現している社会を想定する。この社会においいてこれまで露になっていなかった重い後遺症が残る医療薬害問題が発生したとする。数十万人単位の市民に対して長期的に医療サービスならびに金銭的補償を行わなければならなくなったとき、政府は何を削って予算をつけるべきか。市民の必要に応じた政府支出なのだから、インフレ制約など気にせず追加支出するべきだという意見も当然あるだろうが、ここではパレート最適下を想定しており、新たな支出によって誰かが割を食うことになることを想定している。具体的に言えば、想定した状況下で一切の支出削減なしでの政府の追加支出が発生させるインフレは、高齢者世帯やシングルマザー世帯などの低所得世帯に一番割を食わせるのである。
結論から述べると、ヴァン・パリースによって定式化されたBIないし公正な社会では、至極簡単で、BI支給分を削って追加支出すればよいということになる*3。私もこの意見に首肯するのだが、仮に反対される方がいれば、どのように政府は追加支出すべきなのだろうか、と聞いてみたい。
貧困を終わらせるためのBI
佐藤一光は、生活保護の欠陥を克服するためにBIを採用することを想定し、次のように言及している。
(中略)あらゆる貧困を完全に無くすためには、お金を配って終わりということにはならず、行政による適切な支援が欠かせない。そうであれば、貧困を終わらせるためのBI設計は、現金を給付するだけでなく、資力調査を行わなくなって良くなった分、支援が必要な家庭への伴走支援を強化することとセットでなければならないということになる。
例えば、2020年に一律に給付されたコロナ給付金は、約40万人の人たちが申請を行わなかった。その中にはもちろん、十分に豊かに生活できているため自発的に申請を行わなかった人たちもいるだろう。しかし、住所が不定だったり、申請の手続きをすることができないような、より困窮状態にある人たちが相当数含まれていると考えられる。このような人たちにこそ行政は寄り添い、支援の手を差し伸べる必要があるのであって、一律給付の行政費用削減効果を強調することは困窮者の切り捨てにつながりかねないのである。*4
また、再三引いているが、志賀信夫による、不正義の是正の観点からの言及。
だが、普遍主義的システムであってもBIであっても、個人的差異性に基づく差別とその差別に由来する社会的不利性の除去を根絶できるわけではない。これらは差別の積極的な排除には必ずしも対応していないのである。特定の属性をもつ個人、特定の集団、特定の地域に対する差別と社会的不利性から貧困が生起することも多いという事実に向き合うならば、選別主義的制度から普遍主義的システムへ(あるいはBIへ)という単純な枠組みだけでは貧困問題を緩和・解消できるとは限らない。
普遍主義的システムやBIが実現しても、女性や障害者、性的マイノリティ等への差別、民族差別、地域差別等は解消されない可能性が高い。つまり、いくつかの重大な不正義は是正されえないということである。また、例えば、育ちのなかで家計支持能力の形成が阻害されてきた人物が、経済的困窮状況に陥ってしまった場合の自己責任論と差別はさらに強化されてしまうかもしれない。〈社会としてやるだけのことはやったのだから、あとは自己責任である〉というエクスキューズを与えてしまうかもしれないからである。*5
BIは専ら所得に関しての貧困の緩和には寄与する可能性があるが、貧困の原因を直接的に取り除くものではない。往々にして貧困の原因となっている不正義は、出自や性別などの個人の属性にまつわるため、これを取り除くためには選別的な社会保障制度は重要だということになる。
さらに付け加えるのであれば、ある人らに同一の所得が与えられているとして、彼らは同一の豊かさ(ないし貧しさ)を享受しているのであろうか。センは貧困問題の物差しとして専ら所得が用いられていることの限界を指摘し、潜在能力の欠如という観点で貧困を見ることを提唱したのだった。
時に年齢、身体障害、病気など所得を得る能力を低下させるハンディキャップが、所得を潜在能力に変換させることもあわせて困難にすることがある。先進諸国で高い割合を占める貧困者は、そのようなハンディキャップを抱えていることが多い。この場合、所得を稼ぐ段階でのハンディキャップが、潜在能力を創出するために所得を利用する際のハンディキャップと結びついていることが見落とされているために、貧困問題は過小評価されている。例えば、老人は病気にかからないでいたり、健康を維持したり、自由に移動したり、コミュニティーでの暮らしに参加したり、友人と会ったり、といったもろもろのことで困難が多い。所得を利用する上でのこれらの障害は、従来の所得に基づく貧困分析が唯一の焦点として捉えていた所得稼得能力の低さという特徴に覆いかぶさってくる。*6 *7
この点もヴァン・パリースの提示した制約条件はよくできている。機会平等とベーシック・ニーズ充足という制約条件によって、BIの最大化を目指しながらも、より不遇にあると考えられる人々へのサービス充足によって、不正義の是正を合わせて目標化できるからだ。
そもそも我々が口にする”貧困”とは
ところで、BI支持者がしばしば口にする、行政による既存の選別的社会保障制度の蚊帳の外に置かれた人々、というのは、一体誰のことを指しているのだろうか、と私は常々疑問に思っている。無論、既存の行政による社会保障に多分の問題があるわけだが、それはあくまで選別的社会保障制度の枠組みの中での話である。またこれは、不遇を被っているマイノリティらがBIを元手にすることで、間接的に不正義の是正に役立てることができる、という話とも違う*8。
この上で、例えば前述したように、「貧困を終わらせるため」と述べたときの”貧困”とは、いったい何のことを指しているのだろうか。
よりこれを具体化し、我々の行動に移すには、これもまたセンが助けになるだろう。
貧困の定義をめぐる問題は、記述的な形と政策的な形の両方をとることができる。前者の場合、貧困の定義とは、困窮状態を識別することである。これは政策提言に結びつくこともあるが、それは派生的な特徴でしかない。記述的な作業は当該社会の基準に照らして真に困窮している人は誰かを判断することを目的としている。一方、後者の見方をとる場合、貧困の認定はそのまま政策提言、すなわち社会は貧困に対処するために何らかの措置をとるべきであるという主張につながる。後者の見方では、貧困の定義は主に公共政策の対象を特定することであり、記述的な意味は派生的なものに過ぎない。これとは逆に、前者の見方では記述が主であり政策的提言は派生的なものに過ぎない。
(中略)政策提言が、その実現可能性に条件づけられることは言うまでもないが、貧困の識別は、もっと広い視野で捉えられるべきものである。まず、最初にとるべきステップは、困窮状態を診断すること。そして、それに関連して、もし手段があるならば、何をすべきなのかを決めることであろう。次のステップは、われわれの手の届く手段に沿う形で実際に政策の選択をすることである。この議論に従えば、貧困の記述的な分析は、政策選択に先行して行われる必要がある。*9
センに寄せて言えば、とにかく基礎所得としてのBIが必要だ、としてどのような社会保障制度にもBIが先立つと述べる人は、次のような貧困の定義を取っているということになるかもしれない。
すなわち、貧困を定義するや否やその枠組みから外れてしまう人が出てしまうため、記述的なアプローチは拒否する。専ら政策的アプローチを取ることとなるが、貧困を認定する必要などなく、すべての社会成員に無条件で一定金額の基礎所得を与えることとする政策が提言されることとなる。
なんとか貧困を記述するとすれば、貧困とは、先に述べた通り、単なる所得の問題に単純化されているのではないか。場合によっては、貧困の根絶などと述べながら、貧困の定義が拒否されているため、最初から貧困など存在しないのである。
サバルタンの声を聞く――
あるいは、スピヴァクはサバルタンは語ることができるか*10という問いを発した。サバルタンは非従属社会集団を意味し、日本ならおじろくおばさといったところだろうか。サバルタンが自らを語ることは原理的に困難で、支配者や知識人による「代弁」は、彼らによる一方的な消費に利用されるばかりで、むしろ生の声を奪うことになりかねない。
他方で、サバルタンの声を聞くことをセンに寄せて記述するなら、それがもしかしたら暴力的なものとなることを恐れず、貧困を記述し、診断し、改善する手立てがあるならそれを講じることである。それはとにもかくにも、サバルタンに語りかけてみることから始まる。
例えば、2020年の一律給付金に則して言うなら、申請を行わなかった約40万人が特定できているわけで、その40万人に個別具体的にアプローチする必要があって、その上でどのような問題があるのかを特定して手立てを講じるべきということになる。
BI支持者が、行政による既存の選別的社会保障制度の蚊帳の外に置かれた人々、と述べてみたところで、結局それはBI実現のためのアジテーションとしてサバルタンをでっち上げて利用しているに過ぎないのではないかと、私は深く疑うし、私自身も軽々しく使わないようにしなければ、と強く戒めている次第だ。
*1:BI(ベーシックインカム)の政治哲学的根拠、およびJGPの可能性 - rory / 仏教ロック!のプラモデル日記
*2:立岩真也、斎藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.244)
*3:ただし、BI支給をどのように減らすのかという点は議論の余地があろう
*4:佐藤一光『ベーシックインカムは幻想か』(生活協同組合研究 2021.8 Vol.547, pp.7)
*5:佐々木隆治、志賀信夫編著『ベーシックインカムを問いなおす:その現実と可能性』(2019, pp.171)
*6:アマルティア・セン 著、池本幸生、野上裕生、佐藤仁 訳『不平等の再検討 潜在能力と自由』(1992-1999,2018, pp.198-199)
*7:あるいは入門書から引いてより直截に。|たとえ所得の平等を図ったとしても、所得を使って実現される行いや在りようの集合(すなわち「潜在能力」)が平等になる保障はない。貧困に適応的な選好をもつ貧者と、財貨に飽きた富者が等しい厚生をもつとしても、基本的な潜在能力上の格差は否定できない。
|後藤玲子 著『センの平等論――社会的選択理論の核心』(新村聡、田上孝一 編著『平等の哲学入門』第10章、2021、pp.186)
*8:トニー・フィッツパトリック 著、武川正吾、菊地英明 訳『自由と保障―ベーシック・インカム論争』(1999-2005)を参照のこと
*9:アマルティア・セン 著、池本幸生、野上裕生、佐藤仁 訳『不平等の再検討 潜在能力と自由』(1992-1999,2018, pp.190-191)
*10:G. C. スピヴァク 著、上村忠男 訳『サバルタンは語ることができるか』