rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

プラモデル作成の過程を載せるつもりですが、気ままに書きます

徒然JGP[1] - JGPに対する懸念と批判

承前

むらしんさんがtwitterでJGPにおける懸念点、批判点を募集している。皆さん、気軽なノリで提示していて好ましい雰囲気なのを私が壊したくはないため、こちらのブログで徒然と書いてみようと思う。また、懸念と批判を書くだけではなく、改善点や具体的設計のアイデアも漠然と書いてみたい。前回の記事と違ってきちんと調べてはおらず、思っていることを気の向くまま書くに過ぎない。ということで、続くかわからないが、「徒然JGP」というタイトルにしてみた。

既存の雇用政策に対する批判の確認とJGPに対する懸念

フェアワークおよびディーセントワークという理念

前回の記事では樋口の論考*1を引いて、積極的労働市場政策に対する批判に言及した。

ここに示された1.) 社会的ネットワークの衰退、および2.) 文化的アイデンティティの脆弱化を伴った雇用活性化政策への反省が、新たに提案ないし施行される雇用政策には生かされなければならない。雇用を通した社会的包摂のあり方は経済的側面に限定された単層的なものではありえず、社会的・文化的側面を含めた複層的な構造を持つものでなければならない*2

なお、Webで確認できるチェルネバの論考(The Job Guarantee is Not Workfare | New Economic Perspectives)など見ると、チェルネバ自身は90年代から労働政策研究を実施しており、随分前からワークフェアに対して批判的見解を持っていたようである。この記事で紹介されているナンシー・エレン・ローズの『Workfare or Fair Work: Women, Welfare, and Government Work Programs』は95年の著書である(読んでみたいが英語しかないし、電子版もないようだ)。

チェルネバがJGPに対するFAQでのうち(むらしんさんによる訳はこちら:JGPに対する、よくある質問|むらしん|note)、17や18で述べられているフェアワーク/ディーセントワーク:どんな人にもまともで高給な仕事を確保するための公正な機会を提供するという理念は非常に重要である、という認識にある。

どうやってマッチングするのか

既存の積極的労働市場政策は、就労希望者の個別事情が顧みられずに用意されたプログラムに一元的にあてがう節が強く批判されているのだが、他方でJGPにおいて、A.) 就労希望者の個別事情、およびB.)人、環境、地域のニーズを鑑みてマッチングさせるのには、高度な知識や力量が求められるだろう。

仮に日本でJGPが導入されたとして、ハローワークが窓口を担うとすれば、真っ先にハローワーク職員の非正規雇用を止め、長期間雇用し職員らの技術の維持および向上を図らなければならないだろう。社会福祉士のような国家資格を新設することも悪くないと思われる。

また、JGがNPOや労働協同組合が主体となって提供されるケースを想定すると、NPOの中間支援組織(インターミディアリ|○○NPO支援センター、のような名前の組織|参考:日本NPOセンター)が重要な仕事を担う構想が考えられるし、既存の中間支援組織のノウハウや課題について収集・研究してみることも一定の役に立つのではないかと考える。

そのJGは何を目的としているのか、その評価は?

JGは利潤追求を目的としない。であるから、ただ漫然と行われてよいかといえば全くそんなことはないだろう。

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社会処方研究所のフィールドノート

写真は社会的処方研究所が販売しているフィールドノートだが、街の中で行われている様々な活動をヒアリングするため、至極単純だが5W1Hをしっかり聞けるようにとデザインされている。JGの窓口に行って提供されるJGのリストには、とりわけ「なぜ、なんのために」が提示されている必要を感じる。就業希望者本人がその理念に賛同できるか否かは、やりがいや尊厳の観点から非常に重要と考えるためだ。

他方では、その理念からJGをどう評価するべきかも導くことができるだろう。あるいは、ニーズは常に変化するわけで、漫然と決まった業務に従事するのではなく、ニーズの変化を感じ取って理念と実践の方向修正する機会を設けることは必要だろう。

そのJGはどんな社会正義に適うのか

個人的にはより掘り下げて、そのJGがどのような社会正義に適うのか、という点にも非常に興味がありリストにそれが記載されていると嬉しいと思うが、これは私個人の興味に過ぎない。

例えば、これは私のささやかなアイデアだが、図書館での文献調査やフィールドワークによって地域の歴史を研究する(研究者のサポートのような業務でも良い)、2ヶ月に1回など定期的に発表の場を設け、さらには年に1,2回他地域との交流の機会を設けるようなJGを考えた。これは主に退職した高齢者向けのJGである。書店に並ぶWillやhanada等の実にくだらない扇情ビジネス雑誌、内容を類するyoutubeコンテンツにやられて右傾化する残念な高齢者が増えていると聞く。これに対して、上記のような地域の歴史研究に腰を据えて取り組むJGは、健全なナショナリズム醸成に役立つのではないかと考える。

また、上記のようなJGは、高齢者に鞭打って働かせるのか、という批判には当たらない。むしろ就業の第一線から退いて人生におけるやりがいを失ってしまった退職者に対して、生涯活動として取り組むことのできるやりがいの機会を与えられるのではないか。JGが魅力的なものであれば、例えば年金の受給資格を失っても就労を希望する元気な高齢者もいるのではないだろうか、などと想像する。

職業訓練に対する懸念

私にとって職業訓練に対する懸念は著しいものであるので、別途章立てを分けて言及する。

量を稼ぐのであれば職業訓練が妥当…

総務省統計局による労働力調査では、2020/12の完全失業者数は194万人JGPが実施されたとしたら、もっと多くの就労希望者が殺到するのではないかと考える。200万人すべてに仕事をできる限り早期に提供する、ということを、個々人の能力や地域のニーズに応じた仕事を提供する(ための仕組みを整備する)ことよりも優先した場合、職業訓練は有力な選択肢だろう。現状のコロナ禍を考えればオンライン講義・訓練という手も妥当である。

職業訓練は受講者に尊厳を与えるものなのか

これが私が職業訓練に対して1番に懸念するところである(敷衍して最も懸念するものは後述する)。

職業訓練はいわば就業の準備期間なのであって、それ自体は就業ではない。就業を通しての社会貢献、それに伴う自身の尊厳の獲得や回復という経験が、職業訓練で得られるのだろうか。私はこの点について非常に懐疑的である。むしろ既存の積極的労働市場政策に対する批判を鑑みれば、失業、職業訓練、一時的就業を繰り返すことによる就業意欲の低下、文化的アイデンティティの脆弱化、社会的孤立という悪循環を招くケースが指摘されているのであった。

言い換えると、労働市場でも十分に能力を発揮できると考えられる人材だが、不況などの個人に帰責できない理由で失業してしまっている人、就業意欲も高い人には、職業訓練は就業のための公正な機会を提供するものとして作用するだろう。しかし、何らかの個人的な問題を抱えており、それが長期間の就業を困難にすることに繋がってしまっているような人に対しては、職業訓練は決してプラスに作用するとは言えない。原則としてはJG自体が就業であるべきだ。ここでこそフェアワークの精神が試されると言える。

職業訓練は受講者の社会的孤立を防ぐのに役立つのか

失業者はある側面から見れば、就業を通した社会貢献の機会を奪われた人である。相対的に、失業者は就業者と比較して社会との関わりの機会を失っており、社会的孤立の危険性は1段階高いと考えることはできるだろう。しかし、果たして職業訓練は受講者の社会的孤立を防ぐことに役立つのだろうか。

とりわけ、現状のコロナ禍で、毎日続く孤独なオンライン講義に耐えられず、心身の健康を損なう高校生・大学生の話を見聞きするに至って久しい。多数の就労希望者に何らかの職業訓練を提供する場合、オンラインでの提供は有力な提供方法だが、オンライン講義は通常の対面講義以上に孤独と自律が求められるものと考えられ、受講者への負担は重いものになるとみられる。

ただ、以前にtwitterで会話したことがあるのだが、以下のようなケースのような、同じ問題を抱える人たちが出会う場として職業訓練が機能するのであれば、職業訓練は受講者の社会的孤立を防ぐのに積極的に役立つ可能性がある。

家族介護者に対する介護の職業訓練機会を提供

自治体の介護サービスが受けられない等の理由で家族介護を余儀なくされた人に、介護の職業訓練機会を提供するのはどうだろうか。家族介護のために失業を余儀なくされていたとしたら、将来的には介護を生業とすることもできるし、仮に将来的に生業としなくても、職業訓練で学んだことがそのまま家族の介護に役立つ。中長期的に介護労働従事者の不足解消にも貢献するものと思われる。私が個人的に期待する効果は、介護という同じ悩みを持つ人らと出会う機会にもなり、社会的連帯を産み出すことにもなるのでは、というものである(訓練中のデイサービス提供くらいは自治体が支援する必要があるし、介護が必要な家庭に向けた専用の公営住宅提供なども併せて行うとより効果が高いと思われる)。

ただし、これは現行の政府あるいは自治体が、要介護者に対する現物給付サービスを提供できていないことを容認するものではなく、厳しく糾弾されるべきだ。残念ながら介護労働従事者の不足、伴って発生している家庭介護という現状に対する暫定的解決策に過ぎない。

職業訓練は地域のケアに役立つのか

どのような職業訓練プログラムが提供されるのか如何にも関わってくるが、受講者に人気の職業プログラムは果たして地域のケアに役立つものになるのだろうか。言いたいのは、職業訓練プログラムを終えた受講者は、雇用を求めて都市部へと流入してしまうのではないかということである。偏見かもしれないが、情報通信系は最たるものではないかと思う。地方のIT土方多重下請け構造の下で低所得に甘んじている労働者も多く、所得上昇を求めて大都市圏へ流入するケースというのは少なくないと思われる。

これという基幹と呼べる産業のない地方は、産業誘致・創発、あるいはテレワークなどを契機にした転入者誘致などをJGP以上に積極的に行っていかなくてはならないように思える。

JG=職業訓練というイメージが定着してしまわないか

そして、JGとして職業訓練が提供されるや否や、もはやJGは職業訓練であるというイメージが定着してしまわないかというのが、私が最も懸念することである。既存の積極的労働市場政策に対する反省として、雇用を通した社会的包摂は、経済的のみならず社会的・文化的側面を持った複層的でなければならないことは既に述べたし、職業訓練がこの社会的・文化的側面を提供するもの足り得るのかという疑問についても既に述べた。他方、大量の就業希望者側のニーズにすぐさま応えることを鑑みれば職業訓練が手っ取り早いことも確かである。

その提供量の差から、JG=職業訓練というイメージあるいは、JGにも2つの種類があって、職業訓練とそうではないものというイメージが定着してしまわないかということである。仮にそうなったとして、さらに敷衍して、職業訓練ではないJGに従事する人らを社会的に分断することに繋がらないかということを、最大に危惧するのである。職業訓練ではないJG――しかしそれこそがフェアワークの精神で、人や環境や地域のケアに直接的に役立ち、就業者本人にも役立つ仕事ではないのか。

JGに対する周囲の理解と協力

職業訓練に対する懸念を見てきたが、その上で提示する懸念と課題は、周囲の理解と協力である。人や環境や地域のケアに直接的に役立つことは、裏から見れば、人や環境や地域のニーズが把握できているいなければ実現できない。あるいは1段階ハードルを上げれば、JGが人や環境や地域のニーズを掘り起こすことができなければならない。JGによって提供されるサービスの利用者が、直截にニーズを伝えつつも、温かい目で見てくれるのか、という点は非常に肝要であると思われる。

例えばNHKハートネットTV、障害者施設や福祉事務所がアートを軸にして積極的に障害者と社会との関わりを醸成していく様は、なんだか勇気づけられるとともに、理解を得ていくのに年単位の長い期間を要していることがわかる。

同じことは各地域で発案されたJGに対しても起こるだろう。新規に創発されたものであればこそ、周囲から冷たく訝しげな目で見られることも覚悟しなければならないのではなかろうか。むしろ、残念ながら理解を得られなかったJGについて、「止める」という撤退戦略も予め考えておかなければならないのではないかということさえ頭に浮かぶ。これは、ニーズの観点とともに、就業者のディーセントワークという観点からも求められる戦略である。

私はこの意味では、JGPの導入を急ぐべきではないと考える。言い換えるなら、完全雇用を達成できていない状況は非倫理的だが、この状況を変えるため拙速にJGPを導入しようとする態度が、就労希望者をとにかく雇って、適当に仕事をあてがえばいいという非倫理的な態度に堕す危険性を常に懸念する。さもなくば、地域住民の理解を得られず――利潤追求から離れた、人の、環境の、地域のニーズを的確に量ることは叶わず――フェアワークの精神は失われ、ワークフェアの二の舞になるだろう。

言い換えるなら、JGPは丁寧な導入が求められると考えている。さっさと始めるべきだと言う前に、真剣に制度設計してみなければならないと、強く思う。