rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

プラモデル作成の過程を載せるつもりですが、気ままに書きます

私はまだ人間ではない

イスラエルシオニストらは、ユダヤ教徒ではなく無神論者が多いのだそうです。付け焼き刃の知識をなんとか書いてみると、元々、シオニストらはオーストリア=ハンガリー帝国あるいはロシア帝国帝国主義同化政策の下でユダヤ教アイデンティティを失い、その実存的不安の解消を近代化に見出した人達です。また、その起源にはプロテスタントにおける、経典を文字通りに解釈するリテラリズム(字義尊重主義)が密輸されています。

国家語と土地のある日本(人)とはその境遇は大きく異なりますが、取り立てての宗教的アイデンティティも希薄な日本が、私には危うく見えてしまいます。

多少の生活スタイルの違いで他国籍の人に出ていけと騒ぎ立て、同じ日本人であったとしても、少々考えの異なる人には平気で日本から出ていけと言ってのける。自分に都合の良い文章を見つければ、ほら、ここに書いてある、などと自慢げに指し示してくるーーネットでは無論のこと、最近なら週末の川崎市川口市の街頭でこうした輩と出会うことができるでしょう。彼ら自身の不安は、端的に彼らが根無し草であることから来るものでしかない。彼らの願いが叶ったところで、彼らの不安が消えることはどこまでもあり得ない。そう思います。

他方で、例えば、融和的な同化政策を提案する穏健な保守層も、近代的ナショナリズムによって立つという点ではそう変わらずの危うさを感じます。ディヴィッド・ミラーなど最新の政治哲学においてもなお、ナショナリズムにおける排斥性や暴力性を否定できる論は生まれておらず、ナショナリズムしかない、とその可能性に賭ける学者らはその仕事の傍で常にナショナリズムに対して警鐘を鳴らし続けることを忘れずに行っています。

多くの人がその表層だけを理としているリベラリズムもまた、危ういものです。リベラリストのなれの果ては、法に違反さえしていなければいいだとか、多様性の尊重などといったものーーこれは一見すると卓抜した倫理っぽいが、しかしその実はその概念が産まれた背景に興味も持たず、数年おきにリバイバルするバンドTシャツファッションレベルの、上辺だけの単なるトレンドーーに沿っていればいいだとか、といったもので、これらの道から外れた者に対しては侮蔑の目を向けて何ら問題がないという腐った独善を、正義と勘違いしている人達です。

こんなことを書いてはみましたが、何より結局のところ、故郷から逃げるように上京し、学と才能のなさに絶望し、死ぬこともできず、淋しさを紛らわすために子まで成してしまって惰性で生きているだけの私自身もまた根無し草であって、いよいよ危ういと感じています。

無抵抗の人を圧倒的な暴力で殺し、それも爆弾やミサイルで顔も見えない遠くから殺すだけでなく、戦車やブルドーザーでペシャンコにして殺してみたり、しかも死体に小便をかけたり壁に吊るしたりしてその様子を満面の笑みとともに写真に撮りSNSで公開する人らを見るにつけ、もうたぶん言葉は無力で、こちらも銃を手に取って殺し合いをするしかないーー私にはそうとしか思えないのです。しかし、このようにしか思えないのもまた、私が根無し草であるからであって、思想批判は容易に人物や民族批判へと堕し、憎悪と復讐が殲滅の理論を構築し始めます。

心の底から人間を辞めたくなる。けれども、こうも思うのです。少なくとも私は、今まで人間であった試しがあっただろうか。自身が一角の人間であるという驕りが、それなのに些細な理不尽や不条理にしばしば遭遇することとの間に落差を見つけては、自身も他人も不幸にする言動を繰り返すのだ、などと。重ねられてきた挫折と失敗という事実が、私はまだ人間ではないという証明です。そうして、こうした考えもまた、俺は猿だから、などといった居直りへと容易に堕す危険性を常に孕んでいます。