承前
前回の記事は、BIの政治哲学的根拠というよりも、BIを既存の政治哲学的文脈の中に配置した場合にどのように構想されるのか、という文章になってしまったと思う。BIそのものの政治哲学的根拠を示さなくては、ちんぷんかんぷんという話にもなるだろう。ということで、こちらを先に示すべきだったのだが、BIの政治哲学的根拠を、とりわけヴァン・パリースの考えを多く紹介することを目的に記載しようと思う。前回の記事の見直しも本記事に含め、前回の記事は少々時間をおいて公開を停止しようと思う。加えてアマルティア・セン を引用してヴァン・パリースの構想の射程を改めて図式化し、最後に”ジョブ”に焦点を当てているという共通点から、ヴァン・パリースの立場からMMT の提唱するJGP の可能性を検討してみたい。
ともかく本記事ではまず、BIの政治哲学的根拠について振り返る。そんなもの、何を今更、と思う方もおられるかもしれないが、もし、経済学的な、小手先のつじつま合わせの議論に終始してしまっている人にとっては、次の意味で有用足りうるものと思われる――すなわち、お前らが言っていることの、政治哲学的な、思想的な根拠は何なのだ、と問い返すことができる。
行政の効率化としてのBI?安定化グラント(景気循環 サイクルに連動するBI)?*1 インタゲ連動のBI?なんだ、その、軽いBIは。おい、ふざけるなよ、所得保障だって言っておきながら、景気に連動する支給で生活設計しろってのは馬鹿げてるんじゃないのか。
残念ながら、ベーシックインカム 論議 の多くは、既存の社会的保護制度の代替案としての妥当性を問うものに終始している。(中略)しかし、ベーシックインカム を推進すべき真の理由は、それとは別のところに求めるべきだ。そのなかでも最も重要なのが社会正義である。*2
のっけから偉そうな口を叩いているが、12年ぶりくらいに文章を書くアラフォーのおっさんが、学部1年生に戻ってレポートを書く気分で進める。現役の大学生から批判されてみたいものである(批判足りうるような文章になるのか…?)。
一般的なBIの思想的起源と根拠
BIの思想的起源――自然権 としてのBI
BIの発想は土地やそれを元手にした社会の富を共有財産と位置付ける発想と結びついており、例えばトマス・ペインやトマス・スペンスに遡ることができるようだ。
フランス革命 やアメリカ独立戦争 にも参加したトマス・ペインは著書としては『コモン・センス』が有名だが、別の『人間の権利』や『土地配分の正義』でBI(もしくはベーシック・キャピタル)に通ずる言及がある。『人間の権利』では、「慈善の性質をもつものではなく、権利に属するもの」として年金や生活保護 に対する言及が、『土地配分の正義』では土地を社会の共有財産として捉え、地代を財源とした国民への給付についての提案が見られる。
トマス・スペンスは私も良く知らなかったが、例えば1797年に出版された『幼児の権利』(トマス・ペインの『人間の権利』への批判書)には、地代を財源として、年に4回の定期的な給付についての提案があり、定期的な支払いという意味でのBI案としては最古の文献になるようだ。
その他、山森亮 *3 では時代を追って、
フーリエ 主義者達のBIに近い主張がJ・S・ミルによっても紹介されていること(19世紀)
社会保険 ・保護を中心として公的扶助は補足的なものとして置く福祉国家 が構想されているその時、ミードおよびケインズ の書簡のやり取りの中で、公的扶助中心のBIモデルの優位性が認められていた(20世紀)こと
などが、日本語で比較的簡単な紹介が行われている。
繰り返しになるが、これらの考えは土地や過去の文化的遺産、それらを元手にして産み出された社会の富を共有財産と見做し、それの正当な分配を求めるものであり、国家や富める者からの貧困者への施しなどではなく、「権利としての福祉」、自然権 としてのBIが訴えられている ことが、重要なポイントである。
レンティア経済
また、ガイ・スタンディング*4 による不労所得 に対する批判も紹介しておく。
社会の共有財産は土地や有形資産だけではなく、金融資産や知的財産などの無形資産も含まれる。特許や著作権 、ブランドのような商標は、国家による法規制の下で莫大な資産収入を産み出す。そうした不労所得 を得ている人物のことを英語では「レンティア」と呼ぶ。
元々「レント」は地代を意味するが、まさに新自由主義 が席巻した1980年代以降に新たな重要性が付されることになる。土地がその典型であるような、元手となる何かを誰かに使わせて、その使用料として一定の金額を得るというやり方が、ここに復活したのである *5 。
あるいは、現代国家では特許権 は保護が強化されており、発明に関わる人間に(日本では)20年の独占的な収入が認められる。こうした発明はしばしば政府の補助金 に支援された研究活動により実現しており、政府による税控除、あるいはWHOのような国際機関により強化された国際ルールの下で権利者は資産を得ることができるわけだが、他方で権利者はそうして得た資産を社会に還元する義務を負っているわけではない。
個人的にはこうした人らこそが、社会の寛大さに付け込んだ「真の(リアル・)フリーライダー 」と呼んで差し支えないのではないかと思う。読む人が読めば怒り狂う、あるいは呆れそうだが、以下、引用しよう。
多くの場合、ある人がどのくらい富を築けるかは、才能より、運、法規制、相続、タイミングなどで決まる面が大きい。犯罪で財を成すのは極端なケースとしても、資産を蓄えている人の多くは、万人の共有財産に対して実質的な横領行為をはたらき、公共のサービスと施設を私的ビジネスのために利用して金を設けている。この点も、そうした所得に課税して、すべての人に社会配当、つまり社会が生み出した富の分け前を分配すべき理由になる。*6
万人の共有財産に対して実質的な横領行為をはたらき 、とまで書いているのだからなかなか過激である。
しかし、こうした訴えは、ペインやスペンスによる土地や文化的資産などの実物資産である共有財産の分配という考えと比べると、現代人は受け入れがたい人が多いのではないだろうか。というのも、「公正なルールの下で行われる自由競争の結果を、その個人が独占できるのは至極当然のことだ」という考えが、現代では圧倒的に主流では?――金融資産はひとまず措くとしても、とりわけ特許や著作権 、商標などは(法人も行使できるが)個人が行使することのできる正当な権利であり、むしろ侵害されやすいそれが国家によって保護されるのは当然のこととして考える人が圧倒的に多いのではないだろうか。
ただ、他方で例えば――
賠償金やライセンス料目当ての特許取得・訴訟集団であるパテント・トロール のような存在
トマ・ピケティなどの指摘によって明らかになってきた資産の偏在と階層の固定化という歴史的事実
なども添えて問い直すと、違った見方もできるのではないかと思う。
ここで言いたいのは、BIが突きつける思想的な射程は我々の「私的所有あるいは自己所有権 の概念とその範囲」に及ぶということ――そして我々は、その資産を”正当に”所有しているのか、ということだ 。*7 *8
より広範なBIの根拠について知りたい方は山森亮 『ベーシック・インカム入門 』(2009)やガイ・スタンディング『ベーシックインカムへの道 』(2017-2018)が良くまとまっており、こちらを手に取っていただきたいと思う。
フィリップ・ヴァン・パリースのBIの規範的理論
私的所有とレントを決して斥けないヴァン・パリース
次に、BIの大家と言われているフィリップ・ヴァン・パリースによるBIの政治哲学的根拠に言及したい。
ヴァン・パリースによるBI正当化の理論の特徴は、a.) 実質的自由の最大化を目指す「公正な社会」論、および、b.)「資産としてのジョブ」*9 という考え方にある。後者の「資産としてのジョブ」について、ガイ・スタンディングは前掲書中でも言及しているが、軽く触れる程度で、かつ、決して肯定的ではない*10 。
ここで結論を先取りするなら、ヴァン・パリースは私的所有とレントを批判しないわけではないが、一般的なBIの依拠する社会正義の文脈とは違って、私的所有とレントを斥けない。むしろ、私的所有とレントを徹底して考え抜いた先に、再分配としてのBIの正義が見えてくる、といった次第だ。
その理路は典型的にポスト・モダンなものに映る。いわば私的所有とレントの脱構築 、あるいはリバタリアニズム の脱構築 といって差し支えないように思われる。ただし、このためにヴァン・パリースの立場は一般的なリバタリアニズム とも左派リバタリアニズム とも異なって理解がしにくいものとなっており、それ故、先に示したガイ・スタンディングが肯定的に捉えてないのも頷けるように思える。
「公正な社会」論
ヴァン・パリースによれば、「公正な社会[just society]」とは個人的自由が保証された社会であると考え、その立場を「リアル・リバータリアン 」であると称している。ここでの個人的自由とは、個人がしたいと欲するであろうどんなことであれ、行う自由を持つということを意味する。当然、他の主体の行使する強制や暴力によって個人的行為が妨げられることを許容しないので、この権利保障が必要であると説く。ただし、ヴァンパリースはそれに留まらない。上記権利保障はあくまで形式的自由に留まるのであって、実質的自由[real freedom]も考慮しなければならない――個人が実際にどの程度の行為を為すことができるのか、実現するための手段を確保することができるのかという点についても追求する。
ロールズ の正義の二原理に接近するヴァン・パリースの実質的自由を求める社会の条件
かくしてヴァン・パレースは、上記のような意味での実質的自由を全ての個人にできるだけ多く与えること(real freedom for all)こそが、自由な社会の条件であると主張する。それは、さらに以下の3条件によって、より精密に規定される。すなわり、第一に、強制や暴力などによる侵害なしに諸権利がうまく執行されるような構造が存在すること(権利に関する安全保障の確立)であり、第二に、その構造の下で、個人の自己所有権 が確立・確保されていることであり、第三に、以上の2条件の制約の下で、各個人は己が為したいと欲するであろうどんなことであれ、それを為すための最大限可能な機会が保証されていることである。この3条件は、それが並列的に要請される限り、矛盾する可能性をもつが、パレースは3条件の間に次のような辞書的順序をつけることによって、矛盾を回避しようとしている。すなわち、第一の条件(権利に関する安全保障の確立)を第一次的に優先し、第一の条件の制約下で最大限の自己所有権 の確保が要請される。また、上記2つの条件の優先的達成の元で第三の条件の達成が追求される。*11 *12
このヴァン・パリースの想定する自由な社会の3条件はロールズ の正義の二原理に非常に接近している。ここで、見通しをよくするためにもロールズ の正義の二原理を参照することとする。
ロールズ の考える社会では、功利主義 として集約される社会全体の福祉の増大よりも、個人の自由と権利が一定の優先権を持つ。こうしたロールズ による功利主義 への批判の前提としては、功利主義 がその欠点として社会的弱者への援助や少数者の不自由を放置しがちだという点がある。
例えばバリーは、功利主義 に拠ったとしても、将来の可能性を計算に入れて利益衡量することで、ある特定の社会福祉 サービスの根拠づけが成立し得ることを説明しようとする。例えば民間の災害保険では、一定の期間に火災などの災害に遭わなかった大多数の市民が支払った掛け金が災害に遭った少数の人に与えられる。同様に公的な社会福祉 サービスであっても、自分自身が将来陥るかもしれない(望ましくない)状況に対する補償・受益が期待できるという意味で、現在の当該サービスの受益者に利益を供与する十分な根拠を持つ、とする*13 。。
この説明はかなり説得力を持っているが、やはり限界がある。第一に、自分が将来的に陥ることのない状況に対しての援助は説明できない(例えば、先天的障害など)。第二に、協力すべき十分な理由がある場合に限られる――社会福祉 の充実に協同した場合のほうがより大きな利益を得られる場合にのみ限られる。第三に、社会福祉 の充実は必ずしも優先的価値とされない*14 。
既存の様々な社会福祉 サービスは、我々が道徳に関して持つ様々な直観が少なからず反映され、確立し改善を重ねてきたと見れば、功利主義 的基礎付けのみでの人間像は、その仮定が不十分と言える。他方、ロールズ により提唱された正義の二原理は、功利主義 的基礎付の人間像を書き換えるないし補完するものと言えるだろう。ここでロールズ の正義の二原理を確認すると…
第一原理
各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な全システムに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な全システムといっても無制限なものではなく、すべての人の自由の同様に広範な体系と両立可能なものでなければならない。 (「平等自由の原理」)
第二原理
社会的・経済的不平等は、次の二つの条件を満たすように編成されなければならない:
(a) そうした不平等が、正義にかなった貯蓄原理と首尾一貫しつつ、最も不遇な人々の最大の便益に資するように。 (「格差原理」)
(b) 公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開かれている地位や職務に付帯する [ものだけに不平等がとどまる] ように。 (「公正な機会平等の原理」) *15
さらにこれらには優先順位がつけられ、最も優先順位が高いものから順に「平等自由の原理」「公正な機会平等の原理」「格差原理」と位置付けられた。この優先順位は「辞書的順序」であって、『それに先行する原理が完全に満たされるか、完全に適用されない限り、ある原理は作動を開始することはない』とされた*16 。
改めて言い換えると次のようになる。
1.) 平等自由の原理 (第一原理)
2.2.) 公正な機会平等の原理 (第二原理第二項)
2.1.) 格差原理 (第二原理第一項)
優先順位: 1.) > 2.2.) > 2.1.)
優先する原理は次の原理の前提条件(必要条件)である
この二原理とその優先順位の正当性については深く立ち入らない。ここでは、A.)平等自由の原理の優先から、自由は常に経済的考慮に優先すること、 B.) 格差原理から社会で最も恵まれていない人の生活水準を底上げする形でしか不平等は許されないため、各種社会福祉 サービスは正当化され、功利主義 の欠点である少数者の不自由の克服が導かれること、C.) 常識的な諸指針はこの正義の二原理と比較した場合にあくまで従属的なものに留まること*17 を確認しておくに留める。*18
ロールズ の正義の二原理とヴァン・パリースの公正な社会の条件の類似
さて、今一度ヴァン・パリースの提唱する公正な社会の条件に戻る。
A.) 強制や暴力などによる侵害なしに諸権利がうまく執行されるような構造が存在すること(権利に関する安全保障の確立)
B.) 第二に、その構造の下で、個人の自己所有権 が確立・確保
されていること
C.) 以上の 2 条件の制約の下で、各個人は己が為したいと欲
するであろうどんな事であれ、それを為すための最大限可能な機会が保証されていること
これをロールズ の正義の二原理と比較すると、A.)およびB.)が「平等自由の原理(第一原理)」に、C.)が「公正な機会平等の原理(第二原理第一項)」に対応すると見ることができる。ただし、3つ目の「最大限可能な機会の保証」については注意を要する。
パレースはそれを機会集合のレキシミン配分として定式化している。ただし、レキシミン配分によって定まる「最大限可能な機会」の大きさは、当該社会に存在する個々人の才能や技能の程度、並びに当該社会の経済力(技術的生産力)や資源配分方法に依存することになる。このうち、前二者が社会にとっての外生変数であるのに対し、最後の「資源配分方法」は社会の決定変数である。したがって、実質的自由な社会の第三の条件は、適切な資源配分メカニ ズムの設計を要するものとして解釈される。*19
ここでのレキシミン配分とは、もっとも不遇な個人の状態を最優先で改善させること、この限りにおいて、より厚遇な個人の状態が不均等に改善されることを許容するものである。ここに至って、C.)は「格差原理(第二原理第二項)」も含んだ第二原理全体に対応するものと見ることができるだろう。
このようにヴァン・パリースの提唱する公正な社会の条件はロールズ の正義の二原理にかなり類似している一方、第二原理で示される分配的正義が、個々人が自由を実際に実現するための条件――実質的自由の追求――として再解釈されている点で異なると言えるだろう。
さて、本来であれば、それではその適切な資源配分メカニ ズムとは?という問いが立てられて然るべきであるが、本文章はあくまで政治哲学的根拠を追うことを目的としているため、ここでは措く*20 *21 。
素朴な雇用レント説
次に「資産としてのジョブ」である。これはいわゆる「雇用レント説」として単純化 されて説明されるようだ。今、ある雇用主が時給1500円の人を解雇して時給1200円の人を雇ったとすると、雇用主は差額の300円の利益を得ることができる。この賃金の差のことを雇用レント(雇用の差額地代)と呼ぶ*22 。ある人間が雇用されていることは、別の人間の雇用を奪っていることを意味し、現在働いている人間はこの雇用レントを独占していることになる。よって、雇用レントの部分について、雇用レントを享受できない人間に対して、BIとして対価が支払われるべきではないか、という説である。ただし、
この雇用レント説によって一律給付のBIを正当化する議論は、雇用レントの独占が個人の能力の違いによって生じているケースとジョブの不足によって生じているケースを差別的に扱えない、および/または、各人のジョブ選好の度合いを反映しない、という問題がある。*23
資産としてのジョブ、”ギフト”の公正分配としての社会正義
早速否定されてしまったのだが、ヴァン・パリースの「資産としてのジョブ」概念はもう少し精密に考えられている。これには、その背景にある「”ギフト”の公正分配としての社会正義」の構想を理解する必要がある。
リベラリズム の文脈では、個人が独力で手に入れたものではない能力や資源を「賦与[endowment]」と呼び 、例えば生まれつきの才能や身体的な能力などが内的賦与、与えられる教育資源や環境などの文化資本 を外的賦与と呼んだりし、これらの均等化が「公正な機会平等」と求められる。この意味では、先に言及した社会の共有財産にこうした「賦与」も含まれるとみなせるだろう。
ヴァン・パリースはこの「賦与」=”ギフト”をより広い意味で用いる。我々はせいぜい教育課程を経て就業するまでは、こうした”ギフト”が均等に分配されるべきだと考える。が、ヴァン・パリースは、成人以後、就業以後も我々は様々な形でこうした”ギフト”を受け取り続けるし、その”ギフト”が補足可能で大規模なものであるなら、再分配されるべきだと考える。そして、現代社 会においてはある特定の職業(”ジョブ”)に就くことが、より多くの”ギフト”を受益できるか、それともより少ない”ギフト”を受益するに甘んずるのかが決まり、その決定の仕方は余りにも不平等かつ恣意的であるのではないかと指摘する。
卑近に一言で説明してしまうと、コネ、情報の偏在、就職時における景気、運不運(たまたま条件のよいジョブが空席になったときにそれを見つけられた人とそうでない人)など、経済学が一般に想定しているような変数とはまったく異なる諸要因によってジョブは埋まってゆく*24 。
こうした見方は特段珍しいものには映らないかもしれない。ただし、ヴァン・パリースが”ジョブ”という賦与が不平等であるとする点はもう少し徹底していて、例えば、インサイダー/アウトサイダー 理論および効率賃金仮説を援用する。
(中略)現在のわれわれは非-ワルラス 的な経済にいるのだと、つまり、何らかの理由に拠って労働市場 は均衡する傾向にはないのだと仮定してみよう。(中略)インサイダー/アウトサイダー ・アプローチによれば、組合組織がないとしても、現に雇用されているという事実や、職業訓練 や解雇のコストなどから派生する交渉力のおかげで、労働者たちは市場均衡水準をはるかに超える賃金を継続的に要求することができるという。効率賃金アプローチによれば、賃金と労働生産性 との間にはポジティブな因果的連関があるので、市場均衡賃金以上を労働者たちに支払うのは企業の利益になるという。(中略)このようにこれら二つのアプローチのいずれの説をとろうとも、完全に構想的な経済でさえ、ここで示されたような意味において、非-ワルラス 的経済であり得ることになる。*25
さらにヴァン・パリースはジョブ概念をサラリーマンのような被雇用者に限定しておらず、自営業者、あるいは金融資産などを元手とした不労所得 者にも適用可能だとしている。これを説明するためのヴァン・パリース自身の理路はかなりわかりにくいところがある。他方、齊藤はより卑近な例を出して簡便で説得的な説明をしてくれているので、これを引用する。
(中略)企業に勤める研究者甲氏は、それだけでは何の役にも立たない知識やスキルを持っているが、彼がそれを有効活用できるのは、研究装置や施設といった物理的資本を所有する企業組織のなかに「ジョブ」という地位を有しているからだ。また、ある企業で営業を担当しているサラリーマン乙氏が他社の営業担当者よりも多くの売り上げをあげているとして、その売り上げすべてが乙氏の「貢献」であるはずはなく、大部分がその企業の培ってきた営業ノウハウや業界内でその企業が占める位置に因るだろう。(中略)このように、「ジョブ」というものは自然資源を直接的に使用・用益したり、自然資源の使用にあたってその使用効率を高める知識・技術を活用したり、社会や組織の効率的な運営を可能とする編成方法やそのノウハウを活用したり、といったことを行なうための地位なのである。(中略)その地位を得られた個人の「その」労働が生産全体に対してなした貢献はすべてその個人のものであり、その貢献に対する報酬もその個人のみに帰するべきであるかのように映るのは、われわれの現行の分配のあり方がそうなっているからという事実にもっぱら依拠している。*26
さらに続けて。
(中略)多くの人が信じたがる、「賃金は個人の生産性の関数だ」という過度なまでに分かりやすい想定はまったく客観的な事実ではないし、もっと言えば、賃金によって個人の生産性が「説明」されているだけの子音であり、多くの人がその説明に納得している/しようとしているに過ぎないのだ。「資産としてのジョブ」論から言うべきは以下の点である。個人の賃金は、その個人の労働生産性 によってではなく、その個人の所属する産業や企業の労働生産性 によって、決まる。そしてその労働生産性 はまさに「ギフト」を反映している。*27
ここまでを総じて述べると、ヴァン・パリースの述べる資産としてのジョブとは、
ある種の社会関係資本 social capital として理解するべきで、「社会的財産」――これ自体が自然および選好世代からの諸々の「ギフト」の混交物である――から受益するための地位*28
「市場所得を得る希少な社会的ポジション」
となろう。
社会的財産から受益する地位としてのジョブ*29
さらに、こうしたヴァン・パリースの「資産としてのジョブ」概念を齊藤は図示化している。この図で示されていることは以下の通り。
ジョブを占有[occupy]している労働者は、生産要素としての労働そのものに対する(限界貢献に応じた)報酬を受け取っているのではなく、むしろ「ジョブ」という地位に付随する身分給を受け取っている
ジョブ占有とは、一方において自らの労働を社会的財産へと貢献するパイプであり、他方において社会的財産(の一部)を専有[appropriate]する(社会的財産から受益する)ためのパイプでもある
他方、ジョブを占有できなかった個人Cには、社会的財産から便益を受けるパイプも開かれない*30
ヴァン・パリースの想定する私的所有とレントの可能性
ここまでヴァン・パリースの提示する「公正な社会」および「資産としてのジョブ」を後藤・吉原、立岩・齊藤らに助けを得ながら見てきたが、さらに、私的所有とレントの観点から再度まとめなおすと次のようになるだろう。
"弱い"私的所有――私的ではなく、個人的財産
ヴァン・パリースは「公正な社会」の条件として、個人の自己所有権 を優先的なものとして言及しているが、その自己所有権 はロック主義的な自己所有権 と比較するとはるかに弱い者である。それは「資産としてのジョブ」の彼の考えからも十分に理解できるものだ。
事実、ヴァン・パレースは、ロック主義的リバータリアン が言及する権限原理[entitlement principle]を「強い意味」でのそれと「弱い意味」でのそれとに分類し、自らの議論を「弱い意味」での権限原理に基づく自己所有権 論として位置付けている。*31
この"弱い"私的所有はロールズ の正義の二原理のうち、第一原理がカバーする「基本的諸自由」に含まれる「個人的財産=動産を保有 する権利」にかなり接近している。
これは字義通り「個人的」な所有であり、「私的」な所有ではありません。含まれるのは個人の身の回りのもの、たとえば腕時計や自分の住処などであり、富の増殖につながるような所有とは性質が異なります。天然資源や生産手段の取得と遺贈を含む所有権は、含まれていないのです。個人的財産とその排他的使用権が限定的に認められる理由は、人びとの「個人的な独立と自尊の感覚とが両方とも道徳的能力の適切な発達と行使にとって必須であるがゆえに、それらのために十分なだけの物質的基礎を与えるということにある」(ロールズ 『公正としての正義 再説』)と考えられているからです。*32 *33
ロールズ が認める個人的な所有を言い換えるなら、これは一般的なリバタリアン が絶対的と見做すような権限としての「私的所有」とは異なり、これは社会のコントロール 変数
*34 である。個々人の道徳的な情動が発達し、倫理的にも裏付けられた理知の下でそれを適切に行使する上で必要とされる範囲が認められればそれで構わないのだから、時々や社会の在り方によって可変なものに過ぎない。
レントの肯定的側面の最大限の拡張
他方での「レント」である。例えば中山智香子 は、レント概念に評価できる面もないわけではない――レントは生産性の多寡に拘らず、定期的な所得をもたらすものであって、年金や社会保障 を広義のレントと捉えることでレント概念に新たな可能性が開けるのではないかと述べている。*35
既に見てきたように、ヴァン・パリースは就労にまでレント概念を広げることで社会的資産の分配について正当化を試みる理路を展開しており、中山の指摘を随分と前に先取りしているどころか、その肯定的側面を最大限に拡張しているとさえ言えるだろう。
ここでまたその立場の独自性について言及すると、一般的なBI論者が、あるいはヒレ ル・シュタイナーに代表されるような左派リバタリアニズム が、「自然権 」の観点からBIや外的資産の分配を求めるのに対し、ヴァン・パリースは、1.) 実質的自由を実現する機会集合の最大限の保証という観点から、その経済的物的手段として外的資源の分配を求める。 さらにこれは均等な分配ではない。2.) 個々人の才能や技能、健康状態などの内的賦与の差も考慮したレキシミン配分の観点から、より内的賦与が劣位にある個人に対してはより多くの外的資源の分配が要請される。
提示されるBI
こうしてヴァン・パリースからは雇用レントの再分配のため、BIが提出されることとなるが、そのBIは一般的にイメージされるそれと大きく異なる。この違いは以下の2点に集約されるだろう。
すなわち、1.) 雇用レントの再分配のため、所得課税が必要なものとして要請される点、また、2.) BIは最低限の生活費をカバーする基礎所得であり、その上で様々な上乗せを行うという制度構想ではなく、公共財や現物サービスの支給に加え、特別なニーズを持つ人々への限定した給付を行ったうえでの残りを、BIとして給付するべきだという点である。
前者については負の所得税 (NIT)や給付型税額控除に近いものがイメージされるかもしれない。が、とりわけ重要なのは後者の点についてである。これをロールズ の格差原則を参照しながら言い換えるならば、BIが支給される社会とは、BIしか所得がない人々こそが最も不遇に置かれた社会である ということになる。つまり、資力調査なしで無差別に支給されるBIではあるが、ヴァン・パリースが想定するBIの実現する社会では、BIが実現していない社会以上に、特別なニーズを持つ人々への限定した[targeted]給付が重要視されるのである *36 *37 。
ベーシックインカム の最大化は非優越的多様性基準という制約の下で行われる必要があるので、この制約条件を満たすのを非常に容易にしてくれる数々の政策に特に注目せねばならない。(予防医療のような)現物の普遍的給付、または、(例えば、学習遅延者に対する特別な教育支援といった)ハンディキャップを阻止する特別な給付、さらには、特別なニーズを持つ人々に対する機転の利いた効果的援助の精神を促進すること。これらはごく一部の実例に過ぎない。これが暗に示しているのは、ヘルス・ケアや教育システムの形成をリアル-リバタリアン 的な見地から導出するにあたって、経済的効率性のみがその唯一重要な考慮事項ではないということである。*38
ケイパビリティ・アプローチから見たジョブ資産、そしてジョブ資産から見たJGP
以上のように、ヴァン・パリースが「リアル・リバータリアン 」と称するその立場は、「私的所有」の観点から見た際に一般的なリバタリアニズム とも異なり、「レント」の観点から見た際に左派リバタリアニズム とも異なり、加えて、これら2つの観点から、一般的なBI論者の依拠する社会正義ともその理路は大きく異なっている。
一方、その立場は彼が度々引用するドゥウォーキンやロールズ ら左派リベラリズム に非常に接近しており、さらに人々の選択機会の集合という実質的自由に着目する点においては、アマルティア・セン のケイパビリティ・アプローチにも共通点を持っていると見ることができる。
ケイパビリティ・アプローチにジョブ資産を接合する
よって、ここでさらにアマルティア・セン の提唱したケイパビリティ・アプローチから、ジョブ資産を見てみることとする。以下で提示するケイパビリティ・アプローチにジョブ資産を接合した際の図式は、齊藤の提示した図式とはまた別に、簡潔にジョブ資産を示しているように思われる。
センのケイパビリティ・アプローチの要点を一言で示すなら、自由の平等について、自由を財との関係性のみで見てしまっては財が様々な自由を達成する手段でしかないことを見落としてしまうため、平等であるべきは財(外的資源)ではなくケイパビリティだということになる。このケイパビリティ概念を簡単に図示したのが以下となる。
ケイパビリティ概念と、財、機能の関係*39
センの提唱内では、様々な自由を達成する手段でしかない財ではあるが、ヴァン・パリースを通すとやや面倒な話になる。というのも、手段でしかない財ではあるが、様々な財へのアクセスはジョブを通じて提供されているためである。ここでジョブ資産の考えを図に書き足すなら次のようになるだろう。
ジョブ資産を書き加えたケイパビリティ・アプローチ
センに従うなら、財は自由を達成する手段でしかなく、ケイパビリティの観点から必要に応じて財は不平等に(例えば特別なニーズを持つと考えられる障碍者 や傷病者に対して)分配されなければならない。ここにヴァン・パリースを加えることは、何の平等か *40 という問題を再び呼び戻すことを決して意味しない。ここで強調されるべきは、ケイパビリティの平等を達成するには、単なる財だけに限らずジョブと財という二重の分配問題を抱えているという点だろう。
言い換えれば、セン-ヴァン・パリースに従うなら、ケイパビリティの平等を達成するために財をより多く見積もって分配しなければならないのは、例えば障碍者 や傷病者のようにあまり議論の余地のない個人だけではない。ジョブを通じて財へのアクセス手段(手段への手段)を失っている失業者であり、あるいは、就業者であっても他の就業者と比較してその社会的財産からの受益が少ない者は、財をより多く分配しなければならない対象だということになる。
尤も、ここでは文脈からセンの提唱する”平等”と一旦記述したが、ヴァン・パリースは平等ではなく"レキシミン化"ないし"マキシミン化"せよと主張するだろう。齊藤はより直截に平等的なメンタリティに危惧を表明している。
「機会の平等」では特定のスタート時点以降の「ギフト」を考慮しないため、再分配が過小となる。現代社 会で言えば、おおよそ成人前後の就業がスタート時点と見做されるであろう。「機会の平等」は各人のどの時点のどのような要素を平等化するのか具体的適用についての説明を欠くのに対し、より不遇な人々の漸次的な改善を不断に追及する「機会のレキシミン化」こそが目指されるべきであると説く*41 。
この指摘は非常に示唆的である。ヴァン・パリース-齊藤に従うなら、教育などを通じて「機会の平等」を整えられ、少なくともそのスタートラインは平等であると見られがちな就労こそが、現代社 会における不平等の始まりなのであり、不平等の源泉――そう、平等こそが不平等の源泉なのである。それが社会的財へのアクセス経路となっており、かつ、多くの人が人生の過半を費やす就労期間にも拘わらず、現代社 会では失業や就労者間の賦与の大小が原因となって発生している機会の不平等は、多くが放置された状態にあるのだ。
さらにこの指摘はまた、平等に対する哲学的議論にも一つの具体的示唆を与えるものと捉えることもできるだろう。ロールズ やドゥウォーキン、センらが議論してきたように「何の平等か」は非常に重要な問いとして機能してきたし、今後も機能し続けるだろう。ある視点からの平等は別の視点からの不平等であり、我々はこのマルチレンマの中から何に依拠して社会を構成すべきかという分配的正義の問題をこの問いは突きつけるからだ。
しかし他方、「何の平等か」について一定の社会的合意が得られそれを目指すとなったとき、「どうしたらその平等が達成されるのか」あるいは「どのような状態を平等と見做すことができるのか」という問いを立てたとすると、その問い自体が不平等を産み出す可能性がある点に留意が必要である。繰り返すが、こうした類の問いは、各人のどの時点のどのような要素を平等化するのかという点に我々の興味を焦点化させ、その恣意的な結論がその時点で要素として対象化されなかった要素の不平等を、あるいは別の時点でのその要素の不平等を間接的に正当化する理路として作用し得るのだ*42 。
すなわち、「何の平等か」について一定の社会的合意が得られたのであれば――それをここでは「機会の平等」だとすれば、我々は常に既に「機会の不平等」の状況に置かれているのであって、その不断の改善に取り組まねばならない。時々の暫定解は存在するが、ゴールは最初からどこにも存在しないのである。そして常に、暫定的戦略として、セカンド・チョイスとして提示されるのは、対象を最不遇者に絞る”レキシミン化”、かつ、給付されるサービスの”マキシミン化”である。*43
これまでジョブ、という言葉を多く利用してきたが、最後にMMT (現代貨幣理論)の(規範的側面からのそれも含む)提言であるJGP [Job Guarantee Program]((政府による)就業保証プログラム)を、ヴァン・パリースが称する「リアル・リバータリアン 」の視座から簡単に検討したい。
市井の一部では社会保障 制度、とりわけ市民の生活を保証する基礎的な制度としてBIとJGP いずれが望ましいかといった議論が行われているようで、私が観測しているのは日本のごくせまい範囲でのことだが、世界的にも行われているようである*44 。
そのようにしばしば対立を持って語られているBIとJGP という2つの社会保障 政策について、その一方から他方を見たときにどう映るのかを改めて論じてもそれほど有益なものにはならないかもしれない。それでも、例えばL・ランダル・レイはその著書で、リバタリアン とオーストリア学派 は(でさえ)果たしてJGP を支持できるか、という問いを立て一節を割いて説明している*45 。同様に、リベラル派の平等理論の本流にあるロールズ やセンの理論そのものではないにせよ、それに接近するヴァン・パリースの視座からJGP を見ることは、上記と同程度の意味くらいはあるように思われる。
JGP [Job Guarantee Program](政府による就業保証プログラム)とは
JGP はMMT のそのマクロ経済学 的側面から極めて望ましい性格を持つものとして提唱されているが、JGP 自体はMMT が初めて提唱したアイデア ではない。ステファニー・ケルト ンによれば、その起源は雇用をすべての国民の経済的権利として政府が保証すべきと考えたフランクリン・D・ルーズベルト 大統領に遡れるとされ*46 、またレイによれば、これは1930年代に「最後の貸し手」としての中央銀行 のオペレーションに相当するものとして提唱された*47 。
その仕組みはこうだ。
政府は希望する条件に合った仕事を見つけられないすべての求職者に、仕事と賃金と福利厚生のパッケージを提供する。複数のMMT 派経済学者が、政府の提供する仕事はケアエコノミー関連が好ましいと主張している。簡単に言えば政府が求職者に、人と地域社会、地球を大切に(ケア)するような仕事を必ず見つけると保証するわけだ。これは雇用市場にパブリック・オプション(公的雇用という選択肢)を設けることにほかならない。政府はこの制度の下で働く労働者の賃金を決定し、実際に就労する人の数は自由に変動させる。失業者の市場価格はゼロである(現時点では買い手がいない)ため、政府が買い値を提示し、彼らのために市場を創るのだ。それが実現すれば、非自発的失業 は消滅する。有給雇用を求める人は誰でも、政府の設定した賃金水準で就業機会を与えられる。*48
ここではMMT によって何故JGP が要請されるのかは目的から大きく逸れるため措く。レイないしケルト ンを当たっていただきたい。
既存の積極的労働市場 政策の問題
ここで一旦、既存の積極的労働市場 政策の問題について簡単に確認しておきたい。というのも、雇用こそが社会的に排除されている人々に対する社会的包摂の方法であるとされて実施されてきた各種の積極的労働市場 政策ではありながらも、実際に新たな社会的排除 を産み出すジレンマに陥っていることが指摘されて久しいからである。
とりわけ先進国においては、グローバリゼーションに伴う雇用構造の転換に起因しての失業問題は、従来型のケインズ 主義的な有効需要 政策によって解決されるものではなく、むしろ低スキル労働の需給ミスマッチによる構造的現象と見做されてきた。この認識に基づいて各国で行われてきたのが、労働市場 へのアクセスを改善して労働者の再雇用を積極的に促す政策である。例えばアメリ カやイギリスにおけるワークフェア 、スウェーデン に代表される北欧諸国での就職あっせん、教育訓練等による就職機会の拡大である。
しかし、このような雇用活性化政策は次のような問題を孕んでいる。第一に、諸個人に対して就業能力向上への強い同化圧力をかける一方で、その基準に満たない者を排除する危険性がある。また、第二に、年齢、ジェンダー 、育児・家事・家族ケアなど無償労働 への従事、高い職業資格の有無などの諸個人における社会的条件を黙認して、就業能力向上という一元的基準によって推し量ろうとする傾向が強い。
例えば、子どもを抱えたシングル・マザーは育児や家事などの無償労働 に従事しながら、同時に行政が課す就労支援措置をこなさなくてはならない。さもなければ、彼女たちは必要な自動手当の給付資格を喪失してしまう。また、場合によっては、労働組合 自身が、被雇用者の既得権益 を保護するため女性やマイノリティを劣悪な環境に封じ込めようと意図する。つまり、就業能力の活性化に基づく包摂は、職業的地位に関するヒエラルヒー を生み出し、逆説的に労働者が抱える生活上のリスクを拡大させてしまう。これが、積極的労働市場 政策の内在的ジレンマである。*49
樋口はさらにこの積極的労働市場 政策の内在的ジレンマが続くと仮定すると、さらに2つの問題が引き起こされると指摘する。
第1に、積極的労働市場 政策がもたらす選別原理は、労働市場 内部だけでなく、労働市場 の内部と外部のあいだにより決定的な格差をもたらす。失業の長期化によって労働市場 への接点が長期的に失われれば、今まで求職者というカテゴリーに属していた者は徐々に非労働力化する危険に晒されるようになる。(中略)したがって、食料・教育・福祉・住居など基本サービスの欠落を引き起こす社会的ネットワークの喪失が、排除の社会的側面として大きな問題になるだろう。
第2に、社会参加の度合いが低下するにつれて、労働倫理の低減や社会的孤立への危険性が高まる。そのため、諸個人のアイデンティティ という文化的側面が社会的排除 にとって欠かすことのできない要因になる。一時雇用、研修、職業訓練 という非正規雇用 を何度も繰り返す失業者にとって、労働倫理は脆弱な状態にある。そのため個人の就業能力向上を目的としたイギリスのワークフェア 政策では、労働に対する動機づけが道徳的観点から要請され、失業の原因を個人の責任能力 や行為能力に帰責する傾向が強くなっている。*50
ここに示された1.) 社会的ネットワークの衰退、および2.) 文化的アイデンティティ の脆弱化を伴った雇用活性化政策への反省が、新たに提案ないし施行される雇用政策には生かされなければならない。雇用を通した社会的包摂のあり方は経済的側面に限定された単層的なものではありえず、社会的・文化的側面を含めた複層的な構造を持つものでなければならない *51 。
JGP も当然例外とはならないが、少なくとも現在の日本で実現しているものでもないし、その設計や評価に関してはここでは措くこととする。さらに詳しくJGP について知りたい場合は、例えばむらしんさんにより運営されているWebサイトを参照していただきたい*52 。
そして、「リアル・リバータリアン 」から見た場合のJGP である。ヴァン・パリースが提唱する公正な社会を実現するには、BIだけでは全く不十分であることは既に見てきた。よって、リアル・リバータリアン の立場における公正な社会を実現するのに、JGP がどのように有効であるかという観点から、肯定的見解とその限界を推定したいと思う。
肯定的見解
JGP によって非自発的失業 がゼロになるという点は、論を俟たず肯定的に捉えられるだろう。
そもそも、ヴァン・パリースは雇用レントをBIと所得課税によって再分配しようと提言しているわけだが、仮に失業者、受益の少ない就業者、受益の多い就業者の3者が存在した場合、失業者と受益の少ない就業者との間のレントは、受益の少ない就業者と受益の多い就業者との間のレントよりも相対的に大きいだろう。最低賃金 が一定の有効性をもって機能している時、雇用レントは就業者間では連続的だが失業者-就業者間では最低賃金 分だけ不連続である。さらに、こちらのほうがより重要だが、就業が様々な財への経路となっていると説くわけだから、果たしてそれが金銭的補償で十分に埋め合わせられるのかという点は甚だ疑問である。失業者は椅子を求めているのだから、椅子が提供されるべきである。
さらに自由の観点からもJGP は擁護され得る。各種労働法規に形式的な保護を謳ってみたところで、労働者と雇用者の関係は実質的には対等とは言えないのに対し、JGP は労働者個人の交渉力を実質的に上げることに大きく寄与するだろう。営利企業 で高額の所得を得ている場合は別かもしれないが、劣悪な労働環境や低所得に甘んじている労働者が、「そんな労働をするつもりはない」と雇用者に言えるだけの実質的な力を持つことができるのである。
その限界と留意点
ただし、JGP では当然、就業者間の雇用レントを埋めることはできない。この点はBIと所得課税によって再分配が求められる。JGP は公正な社会を実現するための、対象が限定された現物給付サービスの1つに過ぎない。
さらに、先には自由の観点からもJGP は擁護され得ると述べた。が、リアル・リバータリアン の見地からは、十分な金額のBIによって非就労という選択肢が提示されている状況――非就労という選択が実質的に可能であるにも拘わらず、個人が自発的に就労することも可能な状況――を、より自由であると捉えるだろう。これはJGP に対する否定的見解を決して意味しない。繰り返しになるが、JGP が実施されたうえでBIのマキシミン化が目指されることとなる。
既に記述したようにすべての求職者に対して政府が雇用を保証するJGP の特徴を鑑みるに、求職者の中に選別主義を導入するものからは遠く、より包括的で普遍的な制度と捉えることができる。しかしながら、ワークフェア 等の既存の積極的労働市場 政策が、種々の社会条件に置かれた諸個人を一元的に推し量ろうとすることによって結果として選別し、一時雇用、研修、職業訓練 という非正規雇用 を何度も繰り返す失業者を産み出し、文化的アイデンティティ の脆弱化を招いているという点について、JGP がどう評価されるかは詳細な制度設計ともたらす帰結如何に因るだろう。仮にJGP が、有業者の地位を失業を繰り返す者や無業者に対して実質的に”選別”し”保護”するように作用するのであれば、そのときはじめてリアル・リバータリアン はJGP を糾弾し、制度設計の修正を求めることになるだろう。