rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

プラモデル作成の過程を載せるつもりですが、気ままに書きます

徒然JGP[2] - ビル・ミッチェルによるBI批判とヴァン・パリースとの距離

承前

ビル・ミッチェルのブログを読んだら、説得的なBI批判をしていて納得するところが非常に多かった。MMTerによるBI批判の中では、最も説得的なのではないかと思われた――というか、これまで見聞きしてきたものについては、十分に説得的なものと思えず舌足らずな印象で、ずっと不満を持ち続けていた。最初からこれを読めばよかった…という後悔の念が襲う。

また、ヴァン・パリースらもしばしば引かれており、BIについてもかなり読み込んでいるのだなということが感じられた。

試しにブログ内を"Parijs"で検索してみると、12記事しかない*1。これに加えて、つい最近書いてくれたJGPに関する歴史的な経緯についての最良の記事もある*2。このくらいならば読み込んで、ミッチェルによるBI批判を日本語でまとめて、また自身の考えや知識とも接合してみようと考えてみた次第である。

まず、ミッチェルによるBI批判の要旨についてまとめてみる。

次に、ヴァン・パリースの理路における雇用レント概念について、ミッチェルによる理解に誤りが見られるため、この点について指摘する。これは、ミッチェルによるBI批判の有効性に決して影響を及ぼすものではない。ただし、ミッチェルによる的確なBI批判を受けてもなお、BIがその他の社会保障政策を補完する再分配政策として公正なものである可能性を改めて指摘することとなる。

最後に、下世話な推測も含んだ話を添える。

ビル・ミッチェルによるBI批判の要旨

前提:経済認識、特に失業問題発生原因についての認識の相違

まず、経済認識について。とりわけ失業問題の発生原因について、ミッチェルのブログから。

The BIG conception of income insecurity and unemployment is highly problematic. The existence and persistence of unemployment and the link to income insecurity is generally recognised by BIG advocates but the former is rarely explained. An exception, is leading BIG advocate, Belgian academic Philipe van Parijs who presents both an explanation of unemployment and a related model of BIG financing. Drawing from orthodox neoclassical theory, Van Parijs considers that unemployment arises because wage rigidities impede atomistic competition and prevent the labour market from clearing.

[拙訳] 所得不安と失業に関して、BIG (Basic Income Guarantee) の概念には非常に問題がある。失業の存在とその持続性、および所得不安との関連性は、一般的にBIG提唱者によって認識されている一方、前者についてほとんど説明されていない。例外的にBIG提唱者の第一人者であるベルギーの学者フィリップ・ヴァン・パリースは、失業の説明とBIG財政の関連モデルを提示している。ヴァン・パリースは、正統派の新古典派理論から導き出し、賃金の硬直性が原子状的競争と労働市場清算を妨げているために、失業が発生していると考える。*3

まず第一に重要な指摘は、所得不安はともかくとして、失業という現象についてどのように捉えているのかという点に、BI提唱者の多くが答えを持っていないということである。さて、例外であるヴァン・パリースの失業に関する記述を著作より引用すると…

(中略)現在のわれわれは非-ワルラス的な経済にいるのだと、つまり、何らかの理由に拠って労働市場は均衡する傾向にはないのだと仮定してみよう。(中略)インサイダー/アウトサイダー・アプローチによれば、組合組織がないとしても、現に雇用されているという事実や、職業訓練や解雇のコストなどから派生する交渉力のおかげで、労働者たちは市場均衡水準をはるかに超える賃金を継続的に要求することができるという。効率賃金アプローチによれば、賃金と労働生産性との間にはポジティブな因果的連関があるので、市場均衡賃金以上を労働者たちに支払うのは企業の利益になるという。(中略)このようにこれら二つのアプローチのいずれの説をとろうとも、完全に構想的な経済でさえ、ここで示されたような意味において、非-ワルラス的経済であり得ることになる。*4

ヴァン・パリースはインサイダー/アウトサイダー・アプローチおよび効率賃金アプローチで賃金の硬直性を指摘しており、これが失業を産み出していると述べている――つまり失業問題は競争均衡から外れることで生じる問題であると論じている。

MMTとしてはこれは受け入れられるものではない。MMTにおいて失業は、自然失業率やNAIRUの概念に従って、失業率を減らすために(裁量的な)財政拡大を使う必要はないという、政府によるマクロ経済政策による結果(失敗)である*5*6*7

加えて、こうした新古典派経済学的な考え方にもとづく経済理解から、次のような立場もBIにおいてはよく見られるものである。

In addition to constructing the problem of income insecurity incorrectly, the mainstream BIG literature advocates the introduction of a BIG within a ‘budget neutral’ environment. This is presumably to allay the criticism of the neo-liberals who eschew government deficits.

[拙訳] 主流の BIG (Basic Income Guarantee) 文献は、所得不安の問題を誤って構築していることに加えて、「予算中立」の環境において BIG を導入することを提唱している。これはおそらく、政府の赤字を敬遠する新自由主義者らの批判を和らげるためであろう。*8

これはBIの文章に触れたことのある人の多くが納得することだと思われる。BIの文脈において、財源は常に問題となってきた。なお、ヴァン・パリースは後述する雇用レント概念に基づいて、所得課税を財源とすることを提案している*9

無論、MMTあるいは簿記会計的事実を「輸入」して財政制約はないとしてBIを訴える人も今では少なくないのかもしれない。これについては後述する。

ミッチェルによるBIシナリオ1:予算中立性の下で給付されるBIは控えめな金額に終わる可能性

ミッチェルによるBI批判の文脈では、その導入に伴う大きく2つのシナリオが提示されている。まず1つ目。

I have always argued that BIG is palliative at best.

[拙訳] 私は常に、BIG はせいぜい緩和的なものだと主張してきた。*10

また別のところでは…

Under budget neutrality, the maximum sustainable BIG would be modest. Aggregate demand and employment impacts would be small, and even with some redistribution of working hours; high levels of labour underutilisation are likely to persist. Overall this strategy does not enhance the rights of the most disadvantaged, nor does it provide work for those who desire it.

[拙訳] 予算中立性の下では、持続可能なBIGの最大値は控えめなものに留まるだろう。需要と雇用への影響は小さく、労働時間の再配分をいくらか行ったとしても、高水準の労働力の未利用が続く可能性が高い。全体としては、この戦略は最も不利な立場にある人々の権利を強化するものにはならないし、望む人に仕事を提供するものでもない。*11

ミッチェルは、均衡財政志向の下ではそれで生活設計ができるような十分な金額のBIは望めないだろうというシナリオを提示している。

補足すれば、新古典派経済学の観点からは以下の点でも当てはまるだろう。

ヴァン・パリースの前掲書の訳者である後藤は、新古典派経済学的な就労インセンティブ議論に基づいている限りは、極めて低いBI水準が社会的に推奨される可能性を否定できないという指摘を行っている。

すなわち、BIの十分な水準を目指したとしても、それを実現するための個々人の効用関数が新古典派経済学で仮定される基本的性質を満たすのであれば、より低い課税率(代替効果が現れにくい)とより低い給付水準(所得効果が現れにくい)の組合せが推奨されるだろう、と。事実、アメリカで提出された負の所得税(NIT)に関する提案の多くは、低い給付減少率と低い最低保証レベルに特徴づけられると述べている*12

これはBIに限らず現行の社会保障費全般に言えることである。著しく低い捕捉率という大きな課題がある一方で、その給付金額については世界的にも比較的高水準だと言われている生活保護費ではあるが、(世帯構成にもよるが、少なくとも単身世帯では)最低賃金でのフルタイム労働での収入にも及ばない。さらに全労連の過去の試算では単身者の最低生計費は平均で月23万円必要と出ているが*13、これも最低賃金と比較すると10万円以上不足する。

ミッチェルによるBIシナリオ1.5:BIによって平均的な生活水準の低下を招く可能性

さらにミッチェルは続けて以下のような可能性も指摘している。俗なBI批判では直線的に労働力供給に問題が出るとの批判があるが、ミッチェルの理路はやや複雑である。これについて順に見ていきたい。

Second, it is highly unlikely that labour participation rates would fall with the introduction of the BIG, given the rising participation by women in part-time work (desiring higher family incomes) and the strong commitment to work among the unemployed. But there could be an increase in the supply of part-time labour via full-timers reducing work hours and combining BIG with earned income.

[拙訳] 第二に、(家計収入の向上を望んで)女性のパートタイム労働への参加率が上昇していることや、失業者の間における強い労働意欲を鑑みると、BIG の導入によって労働参加率が低下する可能性は低いと考えられる。しかし、フルタイム労働者がBIG と収入を組み合わせて労働時間を短縮し、パートタイム労働者の供給が増加する可能性がある。*14

まず、ミッチェルは労働参加率が高まる可能性を指摘している。関連して例えば、BI推進の第一人者であるイギリスの経済学者、ガイ・スタンディングはその著書で、以下のような調査結果や実験結果を紹介している*15

  • 2016年6月。スイスにおけるBI導入をめぐる国民投票実施前のある世論調査:経済活動をやめると答えた人は2%に留まり、半分以上がスキルを身につけるためのトレーニングを受けたいと答えた。他方、40%がボランティア活動を始めたいあるいは増やしたい、53%が家族といる時間を増やしたいと答えた。*16*17
  • ナミビアで行われたBIの試験プロジェクト:給付によって経済活動全般が拡大した。*18
  • インドのマディヤ・プラデシュ州での大規模なBI試験プロジェクト。大人(特に女性)の仕事量と労働量が増えた。*19

最近ではアメリカにおける初のBI実験に関する報告書が発表されたとの報道があった。カリフォルニア州北部に位置する人口30万人のストックトン市において、市民125名を対象に毎月500ドルを24か月間支給する社会実験が行われた。結果として受給者のフルタイム労働の割合が増加したという*20

これは、より給与の高い仕事への転職活動がしやすくなったり、求職活動に必要な資金を賄うことができたりと、BIを元手としてより生活水準を向上させる行動に移す人が多いということと認識できる。

しかし、これが大規模に行われた場合、とりわけ、およそ先進国において行われた場合について、ミッチェルは悲観的な可能性を指摘しているということとなる。

失業者ないし低所得層はBIを元手に求職ないしより高収入の仕事への転職を求める。他方、一定以上の収入を得ている層は、勉強やボランティア活動、家族と過ごす時間を増やすために、多少勤労所得が減ってもBIで補えれば良いと判断し労働時間を減らす。要は、ワークシェアリングがより進展すると見ているわけである。

Third, employers in the secondary labour market will probably utilise this increase in part-time labour supply to exploit the large implicit BIG subsidy by reducing wages and conditions.

[拙訳] 第三に、二次労働市場の雇用者はこのパートタイム労働者の供給増加を利用して、すなわち、BIG補助金が生んだこの状況を悪用して、賃金や条件を引き下げる可能性がある。*21

他方、BIが給付されることで、有給の仕事が増えるわけではない。二次労働市場は労働者供給が増えることで買い手市場となり、賃金や労働条件が引き下げられる可能性を指摘している。

この点について補足すると、70-90年代にかけてのBI批判には、雇用者が給付されるBIの分だけ労働賃金を引き下げる可能性が高いというもの多かった*22。ミッチェルにおいてはこの辺りも念頭に置かれているだろう。

BI給付開始が即賃金低下に繋がるとは思えないが、どこかの大企業が市井からの批判に構わずそのような判断をした場合には、一気に賃金引き下げが広まる恐れというのはあるかもしれない。

Fourth, some full-time jobs may be replaced with low wage, low productivity part-time jobs leading to falling investment, skill accumulation and ultimately falling average living standards.

[拙訳] 第四に、一部のフルタイム雇用が低賃金で生産性の低いパートタイム雇用に置き換わる可能性があり、投資や技能蓄積の減少を招き、最終的には平均的な生活水準の低下を招くことになる。*23

さらにミッチェルは続けて、フルタイム雇用が低賃金のパートタイム雇用に置き換わり、これが(設備)投資や技能蓄積の低下、そして最終的には平均的な生活水準の低下を招くことになる可能性を指摘している。

BIがそれを引き起こすのかはひとまず措くとして、フルタイム雇用が低賃金のパートタイム雇用に置き換わることが、産業の不振やサービス低下、ひいては労働者の生活水準の低下を招くというのは、とりわけここ20-30年ほどの日本を見てきた人にとっては首肯するところが大きいのではないか。日本の場合、これは派遣法改正などの労働規制の大幅な緩和、ならびに法人税減税などによって引き起こされたわけではあるが。

以上、ミッチェルのやや複雑な推測を見てきたが、個人的な考えを述べると、あくまでミッチェルの言う指摘は、悲観的な可能性に留まるものと考えている。というのも、上述したようなナミビアのような事例、つまり発展途上国で経済規模の伸びしろのあるケースにおいては、貧困層が貧困からの脱出のためにBIを元手に利用してプラスに働くケースというのも考えられるからである。他方、先進国においてはミッチェルの述べるシナリオを辿る可能性は高まるだろう。

竹中平蔵がBIを提案する理由

余談ではあるが、日本において竹中平蔵日本維新の会が、現行の生活保護社会保険を置き換える形でのBIを提案したりしているが、私は彼らの真の目的は、ミッチェルが指摘する可能性――さらなる非正規雇用増加と低賃金労働市場の拡大ではないかと思われる。

パソナのような派遣業の私企業からすると、生活保護をBIに置き換えたところで大したメリットはない。社会保険を置き換えることができたなら、企業負担分が丸々なくなるわけで大喜びであろう。が、この置き換え案について竹中平蔵が昨年のテレビで披露するとTwitterをはじめとしてネット上で大いに反論が起こり、竹中は決して置き換えを目指すものではないとの方向修正を迫られることとなった。

しかし、これは最初から竹中のシナリオに組み込まれているものであり、単なる交渉術(ドア・イン・ザ・フェイス)ではないのか。確かに社会保険がなくなるのであれば企業負担分も浮くので雇用者側にも相当なメリットになるが、それなしでもBI導入によるワークシェアリング進展が雇用者側のメリットになる可能性は高い。

単純な正規雇用から非正規雇用への転換には限界が来ている。よって、これまで就業を諦めていた潜在失業者層にはBIを元手に学習や就職活動などさせて労働市場へと参入させ、労働時間を減らしてもBIで収入が下がらないのであればと考える正規雇用層を非正規雇用層へと転換させる。このような二次労働市場の盛況、非正規雇用の拡大こそが最大の目的と思える。

ミッチェルによるBIシナリオ2:高水準のBIによる破壊的なパターン

ここまで、新古典派経済学に従うことによって、BIの給付水準が低いものに留まる可能性についてみてきたが、当然、反論があるだろう。すなわち、先にも触れたように、MMTあるいは簿記会計的事実を「輸入」して財政制約はないとしてBIを訴える者によって、生活設計が成り立つような十分な額のBI支給は可能だ――明け透けなく言えば、月に20万円でも30万円でも40万円でもBIを給付することは可能だ――という反論である。

しかし、このようなケースについてはミッチェルはより厳しいシナリオを提示している。これについての記述はやや言い回しが難解であるため、簡便のために箇条書きにしてみる。

  • 均衡財政志向に留まらない、高水準のBIGの導入
  • 通貨価値の下落、インフレ・バイアスの発生
  • 財政支出削減による金利調整、あるいは増税
    • 労働者らの労働市場からの脱落、総労働力供給量の減少

これも順番に見ていく。まず、ここでいう高水準のBIとは、前述した全労連が推計した単身者の最低生計費である月23万円/年276万円と、とりあえず仮定する*25。2021年1月の15歳以上人口は1億1000万人強であり*26、これに上記金額を給付すると考えるとおおよそ300兆円、2020年の名目GDP539兆円*27の60%弱に相当する。半分の月12万円程度でもおおよそ160兆円、名目GDP比で30%弱である。

この高水準のBI給付によるインフレ・バイアスは不可避だろう。政府はBIに手を付けずにこれに対処するということとなると、BI以外の財政支出削減、あるいは増税で対処することとなる。

続けてミッチェルは、高水準のBI給付下においては失業者、被雇用者ともに労働市場からの脱落が発生すると述べる。これを補うと、短期的には失業率の大幅な悪化が見られることになるだろう。ただし、推測される状況はもう少し複雑である。

その後すぐにミッチェルは、労働者を労働力から押し出す形での完全雇用の達成、と続けているのだが、これは幾分か皮肉も込められている表現でもあろうが、やや厄介な現象が起こる可能性を示唆しているとも取れる。つまり、高水準のBI給付下および熾烈な就業競争という状況を前にして、多くの失業者や被雇用者が就業を諦め、給付されるBIのみ、あるいはそこにパートタイム労働での収入を加えた生活に甘んじることで、完全雇用が達成されると言っているわけだ。就業を諦めた者は労働人口としてはカウントされないためだ。もしかすると、これは完全失業率では把握することができないが、「潜在失業」(非労働力人口のうち、適当な仕事がありそうにないとされている者も含めた失業)*28や「不本意正規雇用」の割合*29で把握することが可能かもしれない。が、中長期的にはそれらの指標にすら現れない可能性すらある。

さらにミッチェルは続けて、2つの破壊的なパターンを提示する。

  • 労働供給量の減少による、さらなるインフレ・バイアスの発生
  • あるいは、過小な供給力を満たすための輸入増加と、伴う為替レートと国内価格水準への影響による、さらなるインフレ・バイアスの発生*30

このように、持続的な完全雇用と物価安定の両方を実現する観点から、高水準のBIには非常に問題があると述べている。*31

個人的には、これはさすがに言い過ぎではないかと考えている。つまり、このようなシナリオが現実に発生した場合、どこかで間違いに気付いて、BIの水準低下や廃止へのバックラッシュが発生するだろうと思われるためである。しかし、とにかくBIによって発生したインフレ・バイアスにどう対処するのかが問題であることに変わりはない

積極財政を訴えるBI推進者の隘路

さて、積極財政を訴えるBI推進者についてミッチェルは特に言及していないので、以下で簡潔に補うこととする。繰り返せばBIによって発生したインフレ・バイアスにどのように対処するのか、ということが積極財政を訴えるBI推進者には問われるのである。

一部のBI推進者は雇用創出のための継続的な積極財政を訴えるだろう。また一部のBI推進者は通貨価値下落と労働市場の悪化からさらなる高水準のBIを求めるかもしれない。いずれにせよ、さらなるインフレ・バイアスに悩むこととなる。

BIを維持したまま正当にインフレ・バイアスに対処するためには増税しかない。均衡財政を訴えるBI推進者においては、増税とセットのBIは当たり前で既知のものであるが、しかし、積極財政を訴えるBI推進者から、これについて歯切れのよいシナリオを聞いたことがない。結局、高負担の累進所得税あるいは消費税などで対処せざるを得ないだろう。ただし、ミッチェルの示す悲観的シナリオは、供給力減少に伴うコストプッシュインフレであり、増税での対処効果も限定的となる可能性があるのが厄介だ。

他方では、インフレ・バイアスへの対処を考慮したBIを提案する者もいる。例えば前述したガイ・スタンディングなどは、固定額面と、景気循環=インフレ率に連動する変動額面により構成された2階建てのBI(安定化グラント)を提唱していたりする*32。が、私からすればどうして景気に変動する給付金で生活設計をすることができるだろうか、貨幣価値が目減りしてより多くの給付金が欲しい状況にあって減額されることが決まっているBIなど、当初の目的を失っていて本末転倒ではないか、などと思う次第だ。

BI導入によって産まれ得る社会的不正義

そしてとりわけ重大なのは、BIが新たな社会的不正義を産み出す可能性である。

The so-called ‘freedom’ that basic income recipients enjoy (allegedly) comes at the expense of those who want to work being forced to be front line soldiers in the fight against inflation.

Essentially, basic income advocates have no answer to that question and problem. They are essentially in denial of the realities of capitalism.

[拙訳] BI受給者が享受する(とされる)いわゆる「自由」は、働きたいという意欲を持つ人がインフレとの戦いで前線の兵士になることを余儀なくされるという犠牲の上に成り立っている。

本質的に、BIの支持者はこの疑問と問題に対する答えを持っていない。彼らは本質的に、資本主義の現実を否定しているのだ。Some historical thinking about the Job Guarantee – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

ミッチェルによる厳しい批判であるが、私は正当であると考える。

もし付け加えるなら、BIを受給してそれのみで生活設計を立てる層と、より高い生活水準を目指すなどの目的で就業を目指す層は重なる。低中所得層が、BIで生活を成り立たせながらも、熾烈な就業と失業の繰り返しに苦しんだり、低い待遇に甘んじたり、場合によっては就業を諦めるのである。これは果たして社会正義に適うものなのだろうか。

――私はそれでも(皮肉ではなく)、JGPという政策アイデアと、高所得層や富裕層の存在をないものとして考えるなら、BIの導入は今よりもマシな状況を生み出すように思える。

現状は、効用関数で示されるような個人をモデルとして代替効果と所得効果からその給付水準を低く抑えられた社会保障給付を受ける、失業者も含めた超低所得の貧困層が、割を食っているのである。

対して、BIの給付によって相対貧困率が改善することは事実である。既存の社会保障に手を付けないという前提であれば、BIはこの層に対してはメリットをもたらす。ただし、ここまで見てきたように、インフレとその調整弁としての失業、低待遇就業への転落、あるいは労働市場からの離脱の可能性の高まりというデメリットももたらす。

BIは低中所得層の多くを熾烈な就業競争のスタートラインに立たせるという意味で、そのデメリットを広く分け合いましょうという意味で、平等をもたらすかもしれない。この意味で、私は、「今よりはマシ」と言えるかもしれないと考えるのである。

BIとJGPの真の争点とは

それどころか、このような状況を望ましいと見るBI推進者も少なくないだろう。例えば育児や介護といった社会的価値のある「無給の」仕事に対しての補償としてBIがあるのだ、と。労働供給量の減少というがそれは「有給の」仕事と求職活動だけを見ているだけではないか、「仕事」の概念を狭く捉えているからそう見えるのではないか、と*33*34

ここに至り、ようやくBIとJGPの真の争点が明らかになると言えるかもしれない。

すべてのBI推進者がそうだというわけではない。既存社会保障の置き換えと小さな政府を望むネオリベ志向のBI推進者もいる。

すべてのMMTerないしはJGP推進者がそうだというわけではない。あくまでマクロ経済学的な観点から、物価安定のビルトインスタビライザーとして労働力のプールを提供する機能をこそ重視してJGPを捉えている者もいる。

しかし少なくないBI推進者、およびMMTerないしJGP推進者は、現実の「労働」や「生産性」が私的な利潤追求というごく狭い意味の範囲で用いられ、また、個々人の評価に用いられていることに疑問を抱いているのだ。これに少なくない人が苦しめられている社会に変革をもたらすためには、どのような方策があり得るのかという点で、BI推進者とJGP推進者は哲学的にも実践的にも、意見を異にする。

至極簡単に言えば、BI推進者は「仕事[work]」と「労働[labor]」を分離し*35、「有益[gainful]」だとか「生産的[productive]」だとかといった意味を「労働」から切り離すことで変革を達成しようとする。これに対して、JGP推進者は「仕事」と「労働」は我々の「活動全般[activity]」の要素であり「労働」だけ切り離そうとしてもそううまく切り離せるものではないので、現在、我々が「仕事」や「労働」と呼んでいる「活動」の実践を通して、「有益」だとか「生産的」だとかといった言葉の意味、「仕事」や「労働」といった言葉の意味の変革を達成しようとする

単純な経済/社会保障政策として考えるならば、BIは貧困対策、JGPは雇用対策といった形で異なるレイヤーに位置するものとして考えることができる。しかし、上記の通り、理念的な点での違いが、しばしばいがみ合ったり噛み合わないBI推進派とJGP推進派の対立の源泉なのではないだろうか。

ここまでミッチェルによるBI批判を見てきたわけだが、マクロ経済に対する政策の影響度合いを考えるに、BIには大きな問題があると評価せざるを得ない。この点から考えると、仮にBIを実施するにしても、最低生計費ほどの十分なBIは財政均衡の観点からではなくインフレ抑制の観点から諦めざるを得ず、少額に留めざるを得ない可能性が示唆される。

他方、JGPについてはBIとはまた別の制度設計上の困難を抱えているように見える。とりわけ、ワークフェア等の既存の積極的労働市場政策の失敗に対する反省を生かした設計と運用について、パイロット研究*36やインドの実例に対する評価・研究(MGNREGA*37*38)などが必要と考えられる。

私個人は、BIによって生計を立てるサーファーが実現達成困難、あるいは実現したとしてもそれは著しい社会的不正義を伴っていると考えることから、JGとしてサーファーが活動する世界を夢見て、JGPの可能性を模索したいと考える次第である。

ビル・ミッチェルによるヴァン・パリース理解における誤り

そろそろ文章を終えたいところだが、その前にミッチェルによるヴァン・パリース理解における誤りらしいところが見受けられたので記載しておく。これはここまでに述べたミッチェルによるBI批判の有効性に疑義を生じさせるようなものではない。ただし、それを修正することでBIを再定義・再提示することができるだろう。

ミッチェルによる雇用レント概念の素朴な理解

ミッチェルによる雇用レント理解は以下から伺える。

But the concept of ‘rents’ being available in the first place can be expressed more simply. It just arises from a shortage of jobs. There is nothing ‘natural’ about the fact that some people have jobs and others do not.

[拙訳] しかし、そもそも「(雇用)レント」が手に入るという概念はもっと簡単に表現できる。それはただ、仕事が不足していることから発生する。仕事を持っている人と持っていない人がいるという事実に、「自然」はない。*39

つまり、この雇用レントは非就業者と就業者間のレントとして解されている。

しかし、少なくともヴァン・パリースの述べる雇用レントは非就業者と就業者の間に発生するに留まらない。

ヴァン・パリースは雇用レントをサラリーマンのような被雇用者だけでなく、自営業者や資産運用での不労所得者にも適用可能であると述べている。加えて、所得の異なる就業者間にも発生しているものだとみなせると捉えている。ゆえにヴァン・パリースは、ジョブという椅子の獲得競争によってすべての社会成員に対して生じている雇用レントの是正を、BIの社会正義として提示しているのである。

再定義されるBIと、BIとJGPとのミックス政策の利点

この点の詳細については以前の記事を読んでいただきたいが*40、これは2つの意味で示唆的であることには言及しておきたい。

ひとつは、JGPの導入によって就業者と失業者間の雇用レント差は大きく是正されるため、ヴァン・パリースの雇用レント概念、正義構想にとっても、JGPは望ましいものと見ることができるという点である。

もう一つは、しかしながら就業者間の所得差はJGPでは埋められるものではないので、ここでBIが要請されるという点である。ヴァン・パリースがBIの原資として所得課税を要請するのも、新古典派経済学的な均衡財政の観点からというよりは、この公正さを求める観点に大きく因っている。

ここに至り、ビル・ミッチェルによるBI批判、およびヴァン・パリースによるBI構想を通すことによって、BIはすべての社会成員に不可避で発生している雇用レント差を埋めるないし緩和することを目的とした、恒久的に要請される社会保障政策/再分配政策として再定義され、この点で一定の社会正義を有しているのである

そしてこのように提示されたJGPと再提示されたBIは、いずれについてもヴァン・パリースによって構想されたロールジアンモデルの正義にも適うものなのである。ただし、JGPはBIに優先されるだろう。また、所得課税もセットでBIを検討するならば、それはNITや給付型税額控除に近いものになるかもしれない。

加えて、BIとJGPのミックス政策は次の意味で良い意味での制度的緊張をもたらす可能性があるものと考えられる。

すなわち、

  • 有業者の地位を、失業を繰り返す者や無業者に対して実質的に「選別」し「保護」するようにJGPが作用するのであれば、BIの理念的側面からこれは否定されるだろう。
  • 対して、(不労所得者を含む)無業者の地位を、有業者や失業を繰り返す者に対して実質的に「選別」し「保護」するようにBIが作用するのであれば、JGPの理念的側面からこれは否定されるだろう。

ビル・ミッチェルとヴァン・パリースとの距離

後、もう少しだけ。

Twitterの一部界隈では、ビル・ミッチェルがマルキストであるという側面を訝しむ向きも見られるが、少なくともJGPに見られるマルキストとしてのミッチェルの展望は、ずっとささやかなものである。

JGPを通して社会における生産性といった言葉の持つ意味を変容させよう、それには教育が必要だし、長い時間がかかる、と述べている*41。なんとささやなか革命ではないだろうか。

ここまでヴァン・パリースに言及する部分を中心にミッチェルのBI批判をを見てきた。思うに、70年代に既にJGPの着想を持っていたミッチェルからすれば*42、BIによって資本主義をより強化・推進して共産主義の実現を目指すヴァン・パリースの理路は苦々しいものであったと思われる。もしくは、絶対に口にすることはないだろうが、ソ連ベルリンの壁崩壊前までは、案外と有力な選択肢のひとつなどと思っていたのかもしれない。しかし、具体的な時期はわからないが、少なくともソ連ベルリンの壁崩壊以後に、BIではダメだという確信を得たのではと思われる。

対して、ヴァン・パリースは93-95年あたりだが、マルキシズムを捨ててリバタリアニズムに転向する(と言っても今でも十分にマルキストな気がするが)。ヴァン・パリースがそれまで共産主義の実現のためにBIが必要だと言っていたのを、突如、真の自由を個々人が獲得するためにはBIが必要だと言い始めて、"Real Freedom for All”を書き上げたのが95年である*43

これにミッチェルは、それ見たことかと思ったか、はたまた、大きなショックを受けたのではないか。私はなんとなく後者ではないかとついつい考えてしまう。ヴァン・パリースの著作は95年とそれ以後のものが圧倒的に有名なはずなのに、わざわざそれより前の、しかもマルキストとしての側面が如実にわかるヴァン・パリースの文章を多く引用するのには、含みがあるとしか思えない*44*45*46*47

強烈な違和を感じつつだったのかもしれない――マルキストとしてBIを論じるヴァン・パリースは、ミッチェルにとって80-90年代を通して何かと気になる存在だったのではないかと思われる。それが突如、転向する。それもBIを捨てるのではなくマルキシズムを捨てるわけだから、はらわたが煮えくり返ったのではないかと思われるのだ。

私は、ミッチェルのBI批判の多くは、理論的というよりは、「もううんざりだ!」という感情の吐露に思える。30年以上もそれと付き合ってるのだ、そうもなるだろう。

それでも時折、冷静で説得的な批判を論じていることは既に述べた。そしてたぶん、サーファーの自由を擁護せんとするヴァン・パリースも、以下のJGPの提案には大きく賛同するのではないだろうか。

The Job Guarantee in fact provides a vehicle to establish a new employment paradigm where community development jobs become valued. Over time and within this new Job Guarantee employment paradigm, public debate and education can help broaden the concept of valuable work until activities which we might construe today as being “leisure” would become considered to be “gainful” employment.

So I would allow struggling musicians, artists, surfers, Thespians, etc to be working within the Job Guarantee. In return for the income security, the surfer might be required to conduct water safety awareness for school children; and musicians might be required to rehearse some days a week in school and thus impart knowledge about band dynamics and increase the appreciation of music etc.

Further, relating to my earlier remarks – community activism could become a Job Guarantee job. For example, organising and managing a community garden to provide food for the poor could be a paid job. We would see more of that activity if it was rewarded in this way. Start to get the picture – we can re-define the concept of productive work well beyond the realms of “gainful work” which specifically related to activities that generated private profits for firms. My conception of productivity is social, shared, public … and only limited by one’s imagination.

In this way, the Job Guarantee becomes an evolutionary force – providing income security to those who want it but also the platform for wider definitions of what we mean by work!

[拙訳] 実際、雇用保証は、コミュニティ開発に関する仕事が評価されるようになるだろう、新しい雇用パラダイムを確立するための手段を提供している。時間が経つにつれて、そしてこの新しい雇用保証パラダイムの中で、私たちが今日「余暇」と解釈しているような活動が「有益な」雇用であるとみなされるようになるまで――価値ある仕事という概念を広めることに、公共における議論と教育を役立てることができる。

だから私は、苦労している音楽家、芸術家、サーファー、役者などが雇用保証の範囲内で働くことを認めるだろう。もしかしたら収入保障の見返りとして、サーファーは学校の子供たちに水の安全啓発を行なったりすることが求められるかもしれない。音楽家は、週に何日かは学校でリハーサルをしたり、バンドのダイナミクスに関する知識を教えたり、音楽の鑑賞力を高めたりすることが求められるかもしれない。

さらに、私の以前の発言に関連して――コミュニティの活動は雇用保証の仕事になる可能性がある。例えば、貧しい人々に食料を提供するためにコミュニティガーデンを組織し管理することは、有給の仕事になる可能性がある。それがこの方法で報われた場合、我々はさらに多くのコミュニティの活動を見かける機会が増えていくこととなるだろう。理解し始めよう――我々は、「有益な仕事」という言葉が意味する範囲――企業のための私的な利益を産み出す活動に強く結びついているその言葉の意味する範囲――を超えて、生産的な仕事の概念を再定義することができる。私にとっての生産性という概念は、社会的で、共同的で、公共的な...そんなものなのだけれども、人の想像力によって、それは今、制限されている。

このようにして、雇用保証は進化の力となる――それを望む人々に所得保障を提供するだけでなく、私たちが意味する「仕事」の定義をより広く定義するためのプラットフォームとなるのだ。*48

*1:Search Results for “Parijs” – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*2:Some historical thinking about the Job Guarantee – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*3:Income or employment guarantees? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*4:フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, 第4章 資産としてのジョブ, pp.174)

*5:Some historical thinking about the Job Guarantee – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*6:歴史的経緯については|Some historical thinking about the Job Guarantee – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*7:あるいは新古典派経済学者からJGPに関する批判として、ガイ・スタンディングは堂々とNAIRU概念を挙げている。話が全く嚙み合わない|ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.233-236)

*8:Income or employment guarantees? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*9:本件については過去記事を参照のこと|BI(ベーシックインカム)の政治哲学的根拠、およびJGPの可能性 - rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

*10:Employment guarantees are better than income guarantees – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*11:Income or employment guarantees? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*12:フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, 訳者解説2, pp.455-469)|または|アマルティア・セン後藤玲子 著『福祉と正義』(2008、終章、pp.263-296)

*13:最低生計費は月23万円強に/全労連が発表/地域間で差は見られず - 連合通信社

*14:Income or employment guarantees? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*15:ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.192-193)

*16:1er sondage représentatif : la Suisse continuera à travailler ! - Initiative pour un Revenu de base Inconditionnel

*17:Tabellen_Befragung_BGE_GesamtCH.pdf

*18:Basic Income Grant Pilot Project Assessment Report, April 2009, Namibia NGO Forum

*19:S. Davala, et al.(2008), Basic Income: A Transformative Policy for India

*20:米国初のベーシックインカム実験に関する結果報告書が発表、その成果は...... | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

*21:Income or employment guarantees? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*22:Real Freedom versus Reciprocity: Competing Views on the Justice of Unconditional Basic Income - Robert J. Van Der Veen, 1998

*23:Income or employment guarantees? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*24:Options for Europe – Part 83 – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*25:最低生計費は月23万円強に/全労連が発表/地域間で差は見られず - 連合通信社

*26:統計局ホームページ/労働力調査(基本集計) 2021年(令和3年)1月分結果

*27:統計表一覧(2020年10-12月期 2次速報値) - 内閣府

*28:統計局ホームページ/労働力調査(基本集計) 2021年(令和3年)1月分結果

*29:不本意非正規(2020年4月版)|定点観測 日本の働き方|リクルートワークス研究所

*30:Options for Europe – Part 83 – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*31:詳細な検討は右記参照とのことだが未読|Wages and Wage Determination in 2004 - Martin J. Watts, William Mitchell, 2005

*32:ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.35, 120-122)

*33:ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.185-188)

*34:Guy Standing (2014), A Precariat Charter: From Denizens to Citizens

*35:アレントによる分類を想起されたい|ハンナ・アレント 著|志水速雄 訳『人間の条件』(1958-1994)

*36:【オーストリアXJGP】世界初の無条件での就業保証プログラムを導入(パイロット研究)|ゲーテちゃん|note

*37:Mahatma Gandhi National Rural Employment Gurantee Act

*38:ポスト・コロナにおけるインドの失業と就業保証(JG) (2020年11月17日、ミント[インドビジネス誌])|ゲーテちゃん|note

*39:Is there a case for a basic income guarantee – Part 2 – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*40:本件については過去記事を参照のこと|BI(ベーシックインカム)の政治哲学的根拠、およびJGPの可能性 - rory / 仏教ロック!のプラモデル日記

*41:Would the Job Guarantee be coercive? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*42:Some historical thinking about the Job Guarantee – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*43:フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010)

*44:Would the Job Guarantee be coercive? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*45:Employment guarantees are better than income guarantees – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*46:Is there a case for a basic income guarantee – Part 2 – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*47:Is there a case for a basic income guarantee – Part 5 – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

*48:Would the Job Guarantee be coercive? – Bill Mitchell – Modern Monetary Theory

徒然JGP[1] - JGPに対する懸念と批判

承前

むらしんさんがtwitterでJGPにおける懸念点、批判点を募集している。皆さん、気軽なノリで提示していて好ましい雰囲気なのを私が壊したくはないため、こちらのブログで徒然と書いてみようと思う。また、懸念と批判を書くだけではなく、改善点や具体的設計のアイデアも漠然と書いてみたい。前回の記事と違ってきちんと調べてはおらず、思っていることを気の向くまま書くに過ぎない。ということで、続くかわからないが、「徒然JGP」というタイトルにしてみた。

既存の雇用政策に対する批判の確認とJGPに対する懸念

フェアワークおよびディーセントワークという理念

前回の記事では樋口の論考*1を引いて、積極的労働市場政策に対する批判に言及した。

ここに示された1.) 社会的ネットワークの衰退、および2.) 文化的アイデンティティの脆弱化を伴った雇用活性化政策への反省が、新たに提案ないし施行される雇用政策には生かされなければならない。雇用を通した社会的包摂のあり方は経済的側面に限定された単層的なものではありえず、社会的・文化的側面を含めた複層的な構造を持つものでなければならない*2

なお、Webで確認できるチェルネバの論考(The Job Guarantee is Not Workfare | New Economic Perspectives)など見ると、チェルネバ自身は90年代から労働政策研究を実施しており、随分前からワークフェアに対して批判的見解を持っていたようである。この記事で紹介されているナンシー・エレン・ローズの『Workfare or Fair Work: Women, Welfare, and Government Work Programs』は95年の著書である(読んでみたいが英語しかないし、電子版もないようだ)。

チェルネバがJGPに対するFAQでのうち(むらしんさんによる訳はこちら:JGPに対する、よくある質問|むらしん|note)、17や18で述べられているフェアワーク/ディーセントワーク:どんな人にもまともで高給な仕事を確保するための公正な機会を提供するという理念は非常に重要である、という認識にある。

どうやってマッチングするのか

既存の積極的労働市場政策は、就労希望者の個別事情が顧みられずに用意されたプログラムに一元的にあてがう節が強く批判されているのだが、他方でJGPにおいて、A.) 就労希望者の個別事情、およびB.)人、環境、地域のニーズを鑑みてマッチングさせるのには、高度な知識や力量が求められるだろう。

仮に日本でJGPが導入されたとして、ハローワークが窓口を担うとすれば、真っ先にハローワーク職員の非正規雇用を止め、長期間雇用し職員らの技術の維持および向上を図らなければならないだろう。社会福祉士のような国家資格を新設することも悪くないと思われる。

また、JGがNPOや労働協同組合が主体となって提供されるケースを想定すると、NPOの中間支援組織(インターミディアリ|○○NPO支援センター、のような名前の組織|参考:日本NPOセンター)が重要な仕事を担う構想が考えられるし、既存の中間支援組織のノウハウや課題について収集・研究してみることも一定の役に立つのではないかと考える。

そのJGは何を目的としているのか、その評価は?

JGは利潤追求を目的としない。であるから、ただ漫然と行われてよいかといえば全くそんなことはないだろう。

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社会処方研究所のフィールドノート

写真は社会的処方研究所が販売しているフィールドノートだが、街の中で行われている様々な活動をヒアリングするため、至極単純だが5W1Hをしっかり聞けるようにとデザインされている。JGの窓口に行って提供されるJGのリストには、とりわけ「なぜ、なんのために」が提示されている必要を感じる。就業希望者本人がその理念に賛同できるか否かは、やりがいや尊厳の観点から非常に重要と考えるためだ。

他方では、その理念からJGをどう評価するべきかも導くことができるだろう。あるいは、ニーズは常に変化するわけで、漫然と決まった業務に従事するのではなく、ニーズの変化を感じ取って理念と実践の方向修正する機会を設けることは必要だろう。

そのJGはどんな社会正義に適うのか

個人的にはより掘り下げて、そのJGがどのような社会正義に適うのか、という点にも非常に興味がありリストにそれが記載されていると嬉しいと思うが、これは私個人の興味に過ぎない。

例えば、これは私のささやかなアイデアだが、図書館での文献調査やフィールドワークによって地域の歴史を研究する(研究者のサポートのような業務でも良い)、2ヶ月に1回など定期的に発表の場を設け、さらには年に1,2回他地域との交流の機会を設けるようなJGを考えた。これは主に退職した高齢者向けのJGである。書店に並ぶWillやhanada等の実にくだらない扇情ビジネス雑誌、内容を類するyoutubeコンテンツにやられて右傾化する残念な高齢者が増えていると聞く。これに対して、上記のような地域の歴史研究に腰を据えて取り組むJGは、健全なナショナリズム醸成に役立つのではないかと考える。

また、上記のようなJGは、高齢者に鞭打って働かせるのか、という批判には当たらない。むしろ就業の第一線から退いて人生におけるやりがいを失ってしまった退職者に対して、生涯活動として取り組むことのできるやりがいの機会を与えられるのではないか。JGが魅力的なものであれば、例えば年金の受給資格を失っても就労を希望する元気な高齢者もいるのではないだろうか、などと想像する。

職業訓練に対する懸念

私にとって職業訓練に対する懸念は著しいものであるので、別途章立てを分けて言及する。

量を稼ぐのであれば職業訓練が妥当…

総務省統計局による労働力調査では、2020/12の完全失業者数は194万人JGPが実施されたとしたら、もっと多くの就労希望者が殺到するのではないかと考える。200万人すべてに仕事をできる限り早期に提供する、ということを、個々人の能力や地域のニーズに応じた仕事を提供する(ための仕組みを整備する)ことよりも優先した場合、職業訓練は有力な選択肢だろう。現状のコロナ禍を考えればオンライン講義・訓練という手も妥当である。

職業訓練は受講者に尊厳を与えるものなのか

これが私が職業訓練に対して1番に懸念するところである(敷衍して最も懸念するものは後述する)。

職業訓練はいわば就業の準備期間なのであって、それ自体は就業ではない。就業を通しての社会貢献、それに伴う自身の尊厳の獲得や回復という経験が、職業訓練で得られるのだろうか。私はこの点について非常に懐疑的である。むしろ既存の積極的労働市場政策に対する批判を鑑みれば、失業、職業訓練、一時的就業を繰り返すことによる就業意欲の低下、文化的アイデンティティの脆弱化、社会的孤立という悪循環を招くケースが指摘されているのであった。

言い換えると、労働市場でも十分に能力を発揮できると考えられる人材だが、不況などの個人に帰責できない理由で失業してしまっている人、就業意欲も高い人には、職業訓練は就業のための公正な機会を提供するものとして作用するだろう。しかし、何らかの個人的な問題を抱えており、それが長期間の就業を困難にすることに繋がってしまっているような人に対しては、職業訓練は決してプラスに作用するとは言えない。原則としてはJG自体が就業であるべきだ。ここでこそフェアワークの精神が試されると言える。

職業訓練は受講者の社会的孤立を防ぐのに役立つのか

失業者はある側面から見れば、就業を通した社会貢献の機会を奪われた人である。相対的に、失業者は就業者と比較して社会との関わりの機会を失っており、社会的孤立の危険性は1段階高いと考えることはできるだろう。しかし、果たして職業訓練は受講者の社会的孤立を防ぐことに役立つのだろうか。

とりわけ、現状のコロナ禍で、毎日続く孤独なオンライン講義に耐えられず、心身の健康を損なう高校生・大学生の話を見聞きするに至って久しい。多数の就労希望者に何らかの職業訓練を提供する場合、オンラインでの提供は有力な提供方法だが、オンライン講義は通常の対面講義以上に孤独と自律が求められるものと考えられ、受講者への負担は重いものになるとみられる。

ただ、以前にtwitterで会話したことがあるのだが、以下のようなケースのような、同じ問題を抱える人たちが出会う場として職業訓練が機能するのであれば、職業訓練は受講者の社会的孤立を防ぐのに積極的に役立つ可能性がある。

家族介護者に対する介護の職業訓練機会を提供

自治体の介護サービスが受けられない等の理由で家族介護を余儀なくされた人に、介護の職業訓練機会を提供するのはどうだろうか。家族介護のために失業を余儀なくされていたとしたら、将来的には介護を生業とすることもできるし、仮に将来的に生業としなくても、職業訓練で学んだことがそのまま家族の介護に役立つ。中長期的に介護労働従事者の不足解消にも貢献するものと思われる。私が個人的に期待する効果は、介護という同じ悩みを持つ人らと出会う機会にもなり、社会的連帯を産み出すことにもなるのでは、というものである(訓練中のデイサービス提供くらいは自治体が支援する必要があるし、介護が必要な家庭に向けた専用の公営住宅提供なども併せて行うとより効果が高いと思われる)。

ただし、これは現行の政府あるいは自治体が、要介護者に対する現物給付サービスを提供できていないことを容認するものではなく、厳しく糾弾されるべきだ。残念ながら介護労働従事者の不足、伴って発生している家庭介護という現状に対する暫定的解決策に過ぎない。

職業訓練は地域のケアに役立つのか

どのような職業訓練プログラムが提供されるのか如何にも関わってくるが、受講者に人気の職業プログラムは果たして地域のケアに役立つものになるのだろうか。言いたいのは、職業訓練プログラムを終えた受講者は、雇用を求めて都市部へと流入してしまうのではないかということである。偏見かもしれないが、情報通信系は最たるものではないかと思う。地方のIT土方多重下請け構造の下で低所得に甘んじている労働者も多く、所得上昇を求めて大都市圏へ流入するケースというのは少なくないと思われる。

これという基幹と呼べる産業のない地方は、産業誘致・創発、あるいはテレワークなどを契機にした転入者誘致などをJGP以上に積極的に行っていかなくてはならないように思える。

JG=職業訓練というイメージが定着してしまわないか

そして、JGとして職業訓練が提供されるや否や、もはやJGは職業訓練であるというイメージが定着してしまわないかというのが、私が最も懸念することである。既存の積極的労働市場政策に対する反省として、雇用を通した社会的包摂は、経済的のみならず社会的・文化的側面を持った複層的でなければならないことは既に述べたし、職業訓練がこの社会的・文化的側面を提供するもの足り得るのかという疑問についても既に述べた。他方、大量の就業希望者側のニーズにすぐさま応えることを鑑みれば職業訓練が手っ取り早いことも確かである。

その提供量の差から、JG=職業訓練というイメージあるいは、JGにも2つの種類があって、職業訓練とそうではないものというイメージが定着してしまわないかということである。仮にそうなったとして、さらに敷衍して、職業訓練ではないJGに従事する人らを社会的に分断することに繋がらないかということを、最大に危惧するのである。職業訓練ではないJG――しかしそれこそがフェアワークの精神で、人や環境や地域のケアに直接的に役立ち、就業者本人にも役立つ仕事ではないのか。

JGに対する周囲の理解と協力

職業訓練に対する懸念を見てきたが、その上で提示する懸念と課題は、周囲の理解と協力である。人や環境や地域のケアに直接的に役立つことは、裏から見れば、人や環境や地域のニーズが把握できているいなければ実現できない。あるいは1段階ハードルを上げれば、JGが人や環境や地域のニーズを掘り起こすことができなければならない。JGによって提供されるサービスの利用者が、直截にニーズを伝えつつも、温かい目で見てくれるのか、という点は非常に肝要であると思われる。

例えばNHKハートネットTV、障害者施設や福祉事務所がアートを軸にして積極的に障害者と社会との関わりを醸成していく様は、なんだか勇気づけられるとともに、理解を得ていくのに年単位の長い期間を要していることがわかる。

同じことは各地域で発案されたJGに対しても起こるだろう。新規に創発されたものであればこそ、周囲から冷たく訝しげな目で見られることも覚悟しなければならないのではなかろうか。むしろ、残念ながら理解を得られなかったJGについて、「止める」という撤退戦略も予め考えておかなければならないのではないかということさえ頭に浮かぶ。これは、ニーズの観点とともに、就業者のディーセントワークという観点からも求められる戦略である。

私はこの意味では、JGPの導入を急ぐべきではないと考える。言い換えるなら、完全雇用を達成できていない状況は非倫理的だが、この状況を変えるため拙速にJGPを導入しようとする態度が、就労希望者をとにかく雇って、適当に仕事をあてがえばいいという非倫理的な態度に堕す危険性を常に懸念する。さもなくば、地域住民の理解を得られず――利潤追求から離れた、人の、環境の、地域のニーズを的確に量ることは叶わず――フェアワークの精神は失われ、ワークフェアの二の舞になるだろう。

言い換えるなら、JGPは丁寧な導入が求められると考えている。さっさと始めるべきだと言う前に、真剣に制度設計してみなければならないと、強く思う。

BI(ベーシックインカム)の政治哲学的根拠、およびJGPの可能性

承前

前回の記事は、BIの政治哲学的根拠というよりも、BIを既存の政治哲学的文脈の中に配置した場合にどのように構想されるのか、という文章になってしまったと思う。BIそのものの政治哲学的根拠を示さなくては、ちんぷんかんぷんという話にもなるだろう。ということで、こちらを先に示すべきだったのだが、BIの政治哲学的根拠を、とりわけヴァン・パリースの考えを多く紹介することを目的に記載しようと思う。前回の記事の見直しも本記事に含め、前回の記事は少々時間をおいて公開を停止しようと思う。加えてアマルティア・センを引用してヴァン・パリースの構想の射程を改めて図式化し、最後に”ジョブ”に焦点を当てているという共通点から、ヴァン・パリースの立場からMMTの提唱するJGPの可能性を検討してみたい。

ともかく本記事ではまず、BIの政治哲学的根拠について振り返る。そんなもの、何を今更、と思う方もおられるかもしれないが、もし、経済学的な、小手先のつじつま合わせの議論に終始してしまっている人にとっては、次の意味で有用足りうるものと思われる――すなわち、お前らが言っていることの、政治哲学的な、思想的な根拠は何なのだ、と問い返すことができる。

行政の効率化としてのBI?安定化グラント(景気循環サイクルに連動するBI)?*1インタゲ連動のBI?なんだ、その、軽いBIは。おい、ふざけるなよ、所得保障だって言っておきながら、景気に連動する支給で生活設計しろってのは馬鹿げてるんじゃないのか。

残念ながら、ベーシックインカム論議の多くは、既存の社会的保護制度の代替案としての妥当性を問うものに終始している。(中略)しかし、ベーシックインカムを推進すべき真の理由は、それとは別のところに求めるべきだ。そのなかでも最も重要なのが社会正義である。*2

のっけから偉そうな口を叩いているが、12年ぶりくらいに文章を書くアラフォーのおっさんが、学部1年生に戻ってレポートを書く気分で進める。現役の大学生から批判されてみたいものである(批判足りうるような文章になるのか…?)。

一般的なBIの思想的起源と根拠

BIの思想的起源――自然権としてのBI

BIの発想は土地やそれを元手にした社会の富を共有財産と位置付ける発想と結びついており、例えばトマス・ペインやトマス・スペンスに遡ることができるようだ。

フランス革命アメリカ独立戦争にも参加したトマス・ペインは著書としては『コモン・センス』が有名だが、別の『人間の権利』や『土地配分の正義』でBI(もしくはベーシック・キャピタル)に通ずる言及がある。『人間の権利』では、「慈善の性質をもつものではなく、権利に属するもの」として年金や生活保護に対する言及が、『土地配分の正義』では土地を社会の共有財産として捉え、地代を財源とした国民への給付についての提案が見られる。

トマス・スペンスは私も良く知らなかったが、例えば1797年に出版された『幼児の権利』(トマス・ペインの『人間の権利』への批判書)には、地代を財源として、年に4回の定期的な給付についての提案があり、定期的な支払いという意味でのBI案としては最古の文献になるようだ。

その他、山森亮*3では時代を追って、

  • フーリエ主義者達のBIに近い主張がJ・S・ミルによっても紹介されていること(19世紀)
  • 社会保険・保護を中心として公的扶助は補足的なものとして置く福祉国家が構想されているその時、ミードおよびケインズの書簡のやり取りの中で、公的扶助中心のBIモデルの優位性が認められていた(20世紀)こと

などが、日本語で比較的簡単な紹介が行われている。

繰り返しになるが、これらの考えは土地や過去の文化的遺産、それらを元手にして産み出された社会の富を共有財産と見做し、それの正当な分配を求めるものであり、国家や富める者からの貧困者への施しなどではなく、「権利としての福祉」、自然権としてのBIが訴えられていることが、重要なポイントである。

レンティア経済

また、ガイ・スタンディング*4による不労所得に対する批判も紹介しておく。

社会の共有財産は土地や有形資産だけではなく、金融資産や知的財産などの無形資産も含まれる。特許や著作権、ブランドのような商標は、国家による法規制の下で莫大な資産収入を産み出す。そうした不労所得を得ている人物のことを英語では「レンティア」と呼ぶ。

元々「レント」は地代を意味するが、まさに新自由主義が席巻した1980年代以降に新たな重要性が付されることになる。土地がその典型であるような、元手となる何かを誰かに使わせて、その使用料として一定の金額を得るというやり方が、ここに復活したのである*5

あるいは、現代国家では特許権は保護が強化されており、発明に関わる人間に(日本では)20年の独占的な収入が認められる。こうした発明はしばしば政府の補助金に支援された研究活動により実現しており、政府による税控除、あるいはWHOのような国際機関により強化された国際ルールの下で権利者は資産を得ることができるわけだが、他方で権利者はそうして得た資産を社会に還元する義務を負っているわけではない。

個人的にはこうした人らこそが、社会の寛大さに付け込んだ「真の(リアル・)フリーライダー」と呼んで差し支えないのではないかと思う。読む人が読めば怒り狂う、あるいは呆れそうだが、以下、引用しよう。

多くの場合、ある人がどのくらい富を築けるかは、才能より、運、法規制、相続、タイミングなどで決まる面が大きい。犯罪で財を成すのは極端なケースとしても、資産を蓄えている人の多くは、万人の共有財産に対して実質的な横領行為をはたらき、公共のサービスと施設を私的ビジネスのために利用して金を設けている。この点も、そうした所得に課税して、すべての人に社会配当、つまり社会が生み出した富の分け前を分配すべき理由になる。*6

万人の共有財産に対して実質的な横領行為をはたらき、とまで書いているのだからなかなか過激である。

しかし、こうした訴えは、ペインやスペンスによる土地や文化的資産などの実物資産である共有財産の分配という考えと比べると、現代人は受け入れがたい人が多いのではないだろうか。というのも、「公正なルールの下で行われる自由競争の結果を、その個人が独占できるのは至極当然のことだ」という考えが、現代では圧倒的に主流では?――金融資産はひとまず措くとしても、とりわけ特許や著作権、商標などは(法人も行使できるが)個人が行使することのできる正当な権利であり、むしろ侵害されやすいそれが国家によって保護されるのは当然のこととして考える人が圧倒的に多いのではないだろうか。

ただ、他方で例えば――

  • 賠償金やライセンス料目当ての特許取得・訴訟集団であるパテント・トロールのような存在
  • トマ・ピケティなどの指摘によって明らかになってきた資産の偏在と階層の固定化という歴史的事実

なども添えて問い直すと、違った見方もできるのではないかと思う。

ここで言いたいのは、BIが突きつける思想的な射程は我々の「私的所有あるいは自己所有権の概念とその範囲」に及ぶということ――そして我々は、その資産を”正当に”所有しているのか、ということだ*7*8

より広範なBIの根拠について知りたい方は山森亮ベーシック・インカム入門』(2009)やガイ・スタンディング『ベーシックインカムへの道』(2017-2018)が良くまとまっており、こちらを手に取っていただきたいと思う。

フィリップ・ヴァン・パリースのBIの規範的理論

私的所有とレントを決して斥けないヴァン・パリース

次に、BIの大家と言われているフィリップ・ヴァン・パリースによるBIの政治哲学的根拠に言及したい。

ヴァン・パリースによるBI正当化の理論の特徴は、a.) 実質的自由の最大化を目指す「公正な社会」論、および、b.)「資産としてのジョブ」*9という考え方にある。後者の「資産としてのジョブ」について、ガイ・スタンディングは前掲書中でも言及しているが、軽く触れる程度で、かつ、決して肯定的ではない*10

ここで結論を先取りするなら、ヴァン・パリースは私的所有とレントを批判しないわけではないが、一般的なBIの依拠する社会正義の文脈とは違って、私的所有とレントを斥けない。むしろ、私的所有とレントを徹底して考え抜いた先に、再分配としてのBIの正義が見えてくる、といった次第だ。 その理路は典型的にポスト・モダンなものに映る。いわば私的所有とレントの脱構築、あるいはリバタリアニズム脱構築といって差し支えないように思われる。ただし、このためにヴァン・パリースの立場は一般的なリバタリアニズムとも左派リバタリアニズムとも異なって理解がしにくいものとなっており、それ故、先に示したガイ・スタンディングが肯定的に捉えてないのも頷けるように思える。

「公正な社会」論

ヴァン・パリースによれば、「公正な社会[just society]」とは個人的自由が保証された社会であると考え、その立場を「リアル・リバータリアン」であると称している。ここでの個人的自由とは、個人がしたいと欲するであろうどんなことであれ、行う自由を持つということを意味する。当然、他の主体の行使する強制や暴力によって個人的行為が妨げられることを許容しないので、この権利保障が必要であると説く。ただし、ヴァンパリースはそれに留まらない。上記権利保障はあくまで形式的自由に留まるのであって、実質的自由[real freedom]も考慮しなければならない――個人が実際にどの程度の行為を為すことができるのか、実現するための手段を確保することができるのかという点についても追求する。

ロールズの正義の二原理に接近するヴァン・パリースの実質的自由を求める社会の条件

かくしてヴァン・パレースは、上記のような意味での実質的自由を全ての個人にできるだけ多く与えること(real freedom for all)こそが、自由な社会の条件であると主張する。それは、さらに以下の3条件によって、より精密に規定される。すなわり、第一に、強制や暴力などによる侵害なしに諸権利がうまく執行されるような構造が存在すること(権利に関する安全保障の確立)であり、第二に、その構造の下で、個人の自己所有権が確立・確保されていることであり、第三に、以上の2条件の制約の下で、各個人は己が為したいと欲するであろうどんなことであれ、それを為すための最大限可能な機会が保証されていることである。この3条件は、それが並列的に要請される限り、矛盾する可能性をもつが、パレースは3条件の間に次のような辞書的順序をつけることによって、矛盾を回避しようとしている。すなわち、第一の条件(権利に関する安全保障の確立)を第一次的に優先し、第一の条件の制約下で最大限の自己所有権の確保が要請される。また、上記2つの条件の優先的達成の元で第三の条件の達成が追求される。*11*12

このヴァン・パリースの想定する自由な社会の3条件はロールズの正義の二原理に非常に接近している。ここで、見通しをよくするためにもロールズの正義の二原理を参照することとする。

ロールズの正義の二原理

ロールズの考える社会では、功利主義として集約される社会全体の福祉の増大よりも、個人の自由と権利が一定の優先権を持つ。こうしたロールズによる功利主義への批判の前提としては、功利主義がその欠点として社会的弱者への援助や少数者の不自由を放置しがちだという点がある。

例えばバリーは、功利主義に拠ったとしても、将来の可能性を計算に入れて利益衡量することで、ある特定の社会福祉サービスの根拠づけが成立し得ることを説明しようとする。例えば民間の災害保険では、一定の期間に火災などの災害に遭わなかった大多数の市民が支払った掛け金が災害に遭った少数の人に与えられる。同様に公的な社会福祉サービスであっても、自分自身が将来陥るかもしれない(望ましくない)状況に対する補償・受益が期待できるという意味で、現在の当該サービスの受益者に利益を供与する十分な根拠を持つ、とする*13。。

この説明はかなり説得力を持っているが、やはり限界がある。第一に、自分が将来的に陥ることのない状況に対しての援助は説明できない(例えば、先天的障害など)。第二に、協力すべき十分な理由がある場合に限られる――社会福祉の充実に協同した場合のほうがより大きな利益を得られる場合にのみ限られる。第三に、社会福祉の充実は必ずしも優先的価値とされない*14

既存の様々な社会福祉サービスは、我々が道徳に関して持つ様々な直観が少なからず反映され、確立し改善を重ねてきたと見れば、功利主義的基礎付けのみでの人間像は、その仮定が不十分と言える。他方、ロールズにより提唱された正義の二原理は、功利主義的基礎付の人間像を書き換えるないし補完するものと言えるだろう。ここでロールズの正義の二原理を確認すると…

第一原理

各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な全システムに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な全システムといっても無制限なものではなく、すべての人の自由の同様に広範な体系と両立可能なものでなければならない。 (「平等自由の原理」)

第二原理

社会的・経済的不平等は、次の二つの条件を満たすように編成されなければならない:

(a) そうした不平等が、正義にかなった貯蓄原理と首尾一貫しつつ、最も不遇な人々の最大の便益に資するように。 (「格差原理」)

(b) 公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開かれている地位や職務に付帯する [ものだけに不平等がとどまる] ように。 (「公正な機会平等の原理」) *15

さらにこれらには優先順位がつけられ、最も優先順位が高いものから順に「平等自由の原理」「公正な機会平等の原理」「格差原理」と位置付けられた。この優先順位は「辞書的順序」であって、『それに先行する原理が完全に満たされるか、完全に適用されない限り、ある原理は作動を開始することはない』とされた*16

改めて言い換えると次のようになる。

  • 1.) 平等自由の原理 (第一原理)
  • 2.2.) 公正な機会平等の原理 (第二原理第二項)
  • 2.1.) 格差原理 (第二原理第一項)
  • 優先順位: 1.) > 2.2.) > 2.1.)
  • 優先する原理は次の原理の前提条件(必要条件)である

この二原理とその優先順位の正当性については深く立ち入らない。ここでは、A.)平等自由の原理の優先から、自由は常に経済的考慮に優先すること、 B.) 格差原理から社会で最も恵まれていない人の生活水準を底上げする形でしか不平等は許されないため、各種社会福祉サービスは正当化され、功利主義の欠点である少数者の不自由の克服が導かれること、C.) 常識的な諸指針はこの正義の二原理と比較した場合にあくまで従属的なものに留まること*17を確認しておくに留める。*18

ロールズの正義の二原理とヴァン・パリースの公正な社会の条件の類似

さて、今一度ヴァン・パリースの提唱する公正な社会の条件に戻る。

  • A.) 強制や暴力などによる侵害なしに諸権利がうまく執行されるような構造が存在すること(権利に関する安全保障の確立)
  • B.) 第二に、その構造の下で、個人の自己所有権が確立・確保 されていること
  • C.) 以上の 2 条件の制約の下で、各個人は己が為したいと欲 するであろうどんな事であれ、それを為すための最大限可能な機会が保証されていること

これをロールズの正義の二原理と比較すると、A.)およびB.)が「平等自由の原理(第一原理)」に、C.)が「公正な機会平等の原理(第二原理第一項)」に対応すると見ることができる。ただし、3つ目の「最大限可能な機会の保証」については注意を要する。

パレースはそれを機会集合のレキシミン配分として定式化している。ただし、レキシミン配分によって定まる「最大限可能な機会」の大きさは、当該社会に存在する個々人の才能や技能の程度、並びに当該社会の経済力(技術的生産力)や資源配分方法に依存することになる。このうち、前二者が社会にとっての外生変数であるのに対し、最後の「資源配分方法」は社会の決定変数である。したがって、実質的自由な社会の第三の条件は、適切な資源配分メカニズムの設計を要するものとして解釈される。*19

ここでのレキシミン配分とは、もっとも不遇な個人の状態を最優先で改善させること、この限りにおいて、より厚遇な個人の状態が不均等に改善されることを許容するものである。ここに至って、C.)は「格差原理(第二原理第二項)」も含んだ第二原理全体に対応するものと見ることができるだろう。

このようにヴァン・パリースの提唱する公正な社会の条件はロールズの正義の二原理にかなり類似している一方、第二原理で示される分配的正義が、個々人が自由を実際に実現するための条件――実質的自由の追求――として再解釈されている点で異なると言えるだろう。

さて、本来であれば、それではその適切な資源配分メカニズムとは?という問いが立てられて然るべきであるが、本文章はあくまで政治哲学的根拠を追うことを目的としているため、ここでは措く*20*21

素朴な雇用レント説

次に「資産としてのジョブ」である。これはいわゆる「雇用レント説」として単純化されて説明されるようだ。今、ある雇用主が時給1500円の人を解雇して時給1200円の人を雇ったとすると、雇用主は差額の300円の利益を得ることができる。この賃金の差のことを雇用レント(雇用の差額地代)と呼ぶ*22。ある人間が雇用されていることは、別の人間の雇用を奪っていることを意味し、現在働いている人間はこの雇用レントを独占していることになる。よって、雇用レントの部分について、雇用レントを享受できない人間に対して、BIとして対価が支払われるべきではないか、という説である。ただし、

この雇用レント説によって一律給付のBIを正当化する議論は、雇用レントの独占が個人の能力の違いによって生じているケースとジョブの不足によって生じているケースを差別的に扱えない、および/または、各人のジョブ選好の度合いを反映しない、という問題がある。*23

資産としてのジョブ、”ギフト”の公正分配としての社会正義

早速否定されてしまったのだが、ヴァン・パリースの「資産としてのジョブ」概念はもう少し精密に考えられている。これには、その背景にある「”ギフト”の公正分配としての社会正義」の構想を理解する必要がある。

リベラリズムの文脈では、個人が独力で手に入れたものではない能力や資源を「賦与[endowment]」と呼び、例えば生まれつきの才能や身体的な能力などが内的賦与、与えられる教育資源や環境などの文化資本を外的賦与と呼んだりし、これらの均等化が「公正な機会平等」と求められる。この意味では、先に言及した社会の共有財産にこうした「賦与」も含まれるとみなせるだろう。

ヴァン・パリースはこの「賦与」=”ギフト”をより広い意味で用いる。我々はせいぜい教育課程を経て就業するまでは、こうした”ギフト”が均等に分配されるべきだと考える。が、ヴァン・パリースは、成人以後、就業以後も我々は様々な形でこうした”ギフト”を受け取り続けるし、その”ギフト”が補足可能で大規模なものであるなら、再分配されるべきだと考える。そして、現代社会においてはある特定の職業(”ジョブ”)に就くことが、より多くの”ギフト”を受益できるか、それともより少ない”ギフト”を受益するに甘んずるのかが決まり、その決定の仕方は余りにも不平等かつ恣意的であるのではないかと指摘する。

卑近に一言で説明してしまうと、コネ、情報の偏在、就職時における景気、運不運(たまたま条件のよいジョブが空席になったときにそれを見つけられた人とそうでない人)など、経済学が一般に想定しているような変数とはまったく異なる諸要因によってジョブは埋まってゆく*24

こうした見方は特段珍しいものには映らないかもしれない。ただし、ヴァン・パリースが”ジョブ”という賦与が不平等であるとする点はもう少し徹底していて、例えば、インサイダー/アウトサイダー理論および効率賃金仮説を援用する。

(中略)現在のわれわれは非-ワルラス的な経済にいるのだと、つまり、何らかの理由に拠って労働市場は均衡する傾向にはないのだと仮定してみよう。(中略)インサイダー/アウトサイダー・アプローチによれば、組合組織がないとしても、現に雇用されているという事実や、職業訓練や解雇のコストなどから派生する交渉力のおかげで、労働者たちは市場均衡水準をはるかに超える賃金を継続的に要求することができるという。効率賃金アプローチによれば、賃金と労働生産性との間にはポジティブな因果的連関があるので、市場均衡賃金以上を労働者たちに支払うのは企業の利益になるという。(中略)このようにこれら二つのアプローチのいずれの説をとろうとも、完全に構想的な経済でさえ、ここで示されたような意味において、非-ワルラス的経済であり得ることになる。*25

さらにヴァン・パリースはジョブ概念をサラリーマンのような被雇用者に限定しておらず、自営業者、あるいは金融資産などを元手とした不労所得者にも適用可能だとしている。これを説明するためのヴァン・パリース自身の理路はかなりわかりにくいところがある。他方、齊藤はより卑近な例を出して簡便で説得的な説明をしてくれているので、これを引用する。

(中略)企業に勤める研究者甲氏は、それだけでは何の役にも立たない知識やスキルを持っているが、彼がそれを有効活用できるのは、研究装置や施設といった物理的資本を所有する企業組織のなかに「ジョブ」という地位を有しているからだ。また、ある企業で営業を担当しているサラリーマン乙氏が他社の営業担当者よりも多くの売り上げをあげているとして、その売り上げすべてが乙氏の「貢献」であるはずはなく、大部分がその企業の培ってきた営業ノウハウや業界内でその企業が占める位置に因るだろう。(中略)このように、「ジョブ」というものは自然資源を直接的に使用・用益したり、自然資源の使用にあたってその使用効率を高める知識・技術を活用したり、社会や組織の効率的な運営を可能とする編成方法やそのノウハウを活用したり、といったことを行なうための地位なのである。(中略)その地位を得られた個人の「その」労働が生産全体に対してなした貢献はすべてその個人のものであり、その貢献に対する報酬もその個人のみに帰するべきであるかのように映るのは、われわれの現行の分配のあり方がそうなっているからという事実にもっぱら依拠している。*26

さらに続けて。

(中略)多くの人が信じたがる、「賃金は個人の生産性の関数だ」という過度なまでに分かりやすい想定はまったく客観的な事実ではないし、もっと言えば、賃金によって個人の生産性が「説明」されているだけの子音であり、多くの人がその説明に納得している/しようとしているに過ぎないのだ。「資産としてのジョブ」論から言うべきは以下の点である。個人の賃金は、その個人の労働生産性によってではなく、その個人の所属する産業や企業の労働生産性によって、決まる。そしてその労働生産性はまさに「ギフト」を反映している。*27

ここまでを総じて述べると、ヴァン・パリースの述べる資産としてのジョブとは、

  • ある種の社会関係資本 social capital として理解するべきで、「社会的財産」――これ自体が自然および選好世代からの諸々の「ギフト」の混交物である――から受益するための地位*28
  • 「市場所得を得る希少な社会的ポジション」

となろう。

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社会的財産から受益する地位としてのジョブ*29

さらに、こうしたヴァン・パリースの「資産としてのジョブ」概念を齊藤は図示化している。この図で示されていることは以下の通り。

  • ジョブを占有[occupy]している労働者は、生産要素としての労働そのものに対する(限界貢献に応じた)報酬を受け取っているのではなく、むしろ「ジョブ」という地位に付随する身分給を受け取っている
  • ジョブ占有とは、一方において自らの労働を社会的財産へと貢献するパイプであり、他方において社会的財産(の一部)を専有[appropriate]する(社会的財産から受益する)ためのパイプでもある
  • 他方、ジョブを占有できなかった個人Cには、社会的財産から便益を受けるパイプも開かれない*30

ヴァン・パリースの想定する私的所有とレントの可能性

ここまでヴァン・パリースの提示する「公正な社会」および「資産としてのジョブ」を後藤・吉原、立岩・齊藤らに助けを得ながら見てきたが、さらに、私的所有とレントの観点から再度まとめなおすと次のようになるだろう。

"弱い"私的所有――私的ではなく、個人的財産

ヴァン・パリースは「公正な社会」の条件として、個人の自己所有権を優先的なものとして言及しているが、その自己所有権はロック主義的な自己所有権と比較するとはるかに弱い者である。それは「資産としてのジョブ」の彼の考えからも十分に理解できるものだ。

事実、ヴァン・パレースは、ロック主義的リバータリアンが言及する権限原理[entitlement principle]を「強い意味」でのそれと「弱い意味」でのそれとに分類し、自らの議論を「弱い意味」での権限原理に基づく自己所有権論として位置付けている。*31

この"弱い"私的所有はロールズの正義の二原理のうち、第一原理がカバーする「基本的諸自由」に含まれる「個人的財産=動産を保有する権利」にかなり接近している。

これは字義通り「個人的」な所有であり、「私的」な所有ではありません。含まれるのは個人の身の回りのもの、たとえば腕時計や自分の住処などであり、富の増殖につながるような所有とは性質が異なります。天然資源や生産手段の取得と遺贈を含む所有権は、含まれていないのです。個人的財産とその排他的使用権が限定的に認められる理由は、人びとの「個人的な独立と自尊の感覚とが両方とも道徳的能力の適切な発達と行使にとって必須であるがゆえに、それらのために十分なだけの物質的基礎を与えるということにある」(ロールズ『公正としての正義 再説』)と考えられているからです。*32*33

ロールズが認める個人的な所有を言い換えるなら、これは一般的なリバタリアンが絶対的と見做すような権限としての「私的所有」とは異なり、これは社会のコントロール変数 *34である。個々人の道徳的な情動が発達し、倫理的にも裏付けられた理知の下でそれを適切に行使する上で必要とされる範囲が認められればそれで構わないのだから、時々や社会の在り方によって可変なものに過ぎない。

レントの肯定的側面の最大限の拡張

他方での「レント」である。例えば中山智香子は、レント概念に評価できる面もないわけではない――レントは生産性の多寡に拘らず、定期的な所得をもたらすものであって、年金や社会保障を広義のレントと捉えることでレント概念に新たな可能性が開けるのではないかと述べている。*35

既に見てきたように、ヴァン・パリースは就労にまでレント概念を広げることで社会的資産の分配について正当化を試みる理路を展開しており、中山の指摘を随分と前に先取りしているどころか、その肯定的側面を最大限に拡張しているとさえ言えるだろう。

ここでまたその立場の独自性について言及すると、一般的なBI論者が、あるいはヒレル・シュタイナーに代表されるような左派リバタリアニズムが、「自然権」の観点からBIや外的資産の分配を求めるのに対し、ヴァン・パリースは、1.) 実質的自由を実現する機会集合の最大限の保証という観点から、その経済的物的手段として外的資源の分配を求める。さらにこれは均等な分配ではない。2.) 個々人の才能や技能、健康状態などの内的賦与の差も考慮したレキシミン配分の観点から、より内的賦与が劣位にある個人に対してはより多くの外的資源の分配が要請される。

提示されるBI

こうしてヴァン・パリースからは雇用レントの再分配のため、BIが提出されることとなるが、そのBIは一般的にイメージされるそれと大きく異なる。この違いは以下の2点に集約されるだろう。

すなわち、1.) 雇用レントの再分配のため、所得課税が必要なものとして要請される点、また、2.) BIは最低限の生活費をカバーする基礎所得であり、その上で様々な上乗せを行うという制度構想ではなく、公共財や現物サービスの支給に加え、特別なニーズを持つ人々への限定した給付を行ったうえでの残りを、BIとして給付するべきだという点である。

前者については負の所得税(NIT)や給付型税額控除に近いものがイメージされるかもしれない。が、とりわけ重要なのは後者の点についてである。これをロールズの格差原則を参照しながら言い換えるならば、BIが支給される社会とは、BIしか所得がない人々こそが最も不遇に置かれた社会であるということになる。つまり、資力調査なしで無差別に支給されるBIではあるが、ヴァン・パリースが想定するBIの実現する社会では、BIが実現していない社会以上に、特別なニーズを持つ人々への限定した[targeted]給付が重要視されるのである*36*37

ベーシックインカムの最大化は非優越的多様性基準という制約の下で行われる必要があるので、この制約条件を満たすのを非常に容易にしてくれる数々の政策に特に注目せねばならない。(予防医療のような)現物の普遍的給付、または、(例えば、学習遅延者に対する特別な教育支援といった)ハンディキャップを阻止する特別な給付、さらには、特別なニーズを持つ人々に対する機転の利いた効果的援助の精神を促進すること。これらはごく一部の実例に過ぎない。これが暗に示しているのは、ヘルス・ケアや教育システムの形成をリアル-リバタリアン的な見地から導出するにあたって、経済的効率性のみがその唯一重要な考慮事項ではないということである。*38

ケイパビリティ・アプローチから見たジョブ資産、そしてジョブ資産から見たJGP

以上のように、ヴァン・パリースが「リアル・リバータリアン」と称するその立場は、「私的所有」の観点から見た際に一般的なリバタリアニズムとも異なり、「レント」の観点から見た際に左派リバタリアニズムとも異なり、加えて、これら2つの観点から、一般的なBI論者の依拠する社会正義ともその理路は大きく異なっている。

一方、その立場は彼が度々引用するドゥウォーキンやロールズら左派リベラリズムに非常に接近しており、さらに人々の選択機会の集合という実質的自由に着目する点においては、アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチにも共通点を持っていると見ることができる。

ケイパビリティ・アプローチにジョブ資産を接合する

よって、ここでさらにアマルティア・センの提唱したケイパビリティ・アプローチから、ジョブ資産を見てみることとする。以下で提示するケイパビリティ・アプローチにジョブ資産を接合した際の図式は、齊藤の提示した図式とはまた別に、簡潔にジョブ資産を示しているように思われる。

センのケイパビリティ・アプローチの要点を一言で示すなら、自由の平等について、自由を財との関係性のみで見てしまっては財が様々な自由を達成する手段でしかないことを見落としてしまうため、平等であるべきは財(外的資源)ではなくケイパビリティだということになる。このケイパビリティ概念を簡単に図示したのが以下となる。

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ケイパビリティ概念と、財、機能の関係*39

センの提唱内では、様々な自由を達成する手段でしかない財ではあるが、ヴァン・パリースを通すとやや面倒な話になる。というのも、手段でしかない財ではあるが、様々な財へのアクセスはジョブを通じて提供されているためである。ここでジョブ資産の考えを図に書き足すなら次のようになるだろう。

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ジョブ資産を書き加えたケイパビリティ・アプローチ

センに従うなら、財は自由を達成する手段でしかなく、ケイパビリティの観点から必要に応じて財は不平等に(例えば特別なニーズを持つと考えられる障碍者や傷病者に対して)分配されなければならない。ここにヴァン・パリースを加えることは、何の平等か*40という問題を再び呼び戻すことを決して意味しない。ここで強調されるべきは、ケイパビリティの平等を達成するには、単なる財だけに限らずジョブと財という二重の分配問題を抱えているという点だろう。

言い換えれば、セン-ヴァン・パリースに従うなら、ケイパビリティの平等を達成するために財をより多く見積もって分配しなければならないのは、例えば障碍者や傷病者のようにあまり議論の余地のない個人だけではない。ジョブを通じて財へのアクセス手段(手段への手段)を失っている失業者であり、あるいは、就業者であっても他の就業者と比較してその社会的財産からの受益が少ない者は、財をより多く分配しなければならない対象だということになる。

尤も、ここでは文脈からセンの提唱する”平等”と一旦記述したが、ヴァン・パリースは平等ではなく"レキシミン化"ないし"マキシミン化"せよと主張するだろう。齊藤はより直截に平等的なメンタリティに危惧を表明している。

「機会の平等」では特定のスタート時点以降の「ギフト」を考慮しないため、再分配が過小となる。現代社会で言えば、おおよそ成人前後の就業がスタート時点と見做されるであろう。「機会の平等」は各人のどの時点のどのような要素を平等化するのか具体的適用についての説明を欠くのに対し、より不遇な人々の漸次的な改善を不断に追及する「機会のレキシミン化」こそが目指されるべきであると説く*41

この指摘は非常に示唆的である。ヴァン・パリース-齊藤に従うなら、教育などを通じて「機会の平等」を整えられ、少なくともそのスタートラインは平等であると見られがちな就労こそが、現代社会における不平等の始まりなのであり、不平等の源泉――そう、平等こそが不平等の源泉なのである。それが社会的財へのアクセス経路となっており、かつ、多くの人が人生の過半を費やす就労期間にも拘わらず、現代社会では失業や就労者間の賦与の大小が原因となって発生している機会の不平等は、多くが放置された状態にあるのだ。

さらにこの指摘はまた、平等に対する哲学的議論にも一つの具体的示唆を与えるものと捉えることもできるだろう。ロールズやドゥウォーキン、センらが議論してきたように「何の平等か」は非常に重要な問いとして機能してきたし、今後も機能し続けるだろう。ある視点からの平等は別の視点からの不平等であり、我々はこのマルチレンマの中から何に依拠して社会を構成すべきかという分配的正義の問題をこの問いは突きつけるからだ。

しかし他方、「何の平等か」について一定の社会的合意が得られそれを目指すとなったとき、「どうしたらその平等が達成されるのか」あるいは「どのような状態を平等と見做すことができるのか」という問いを立てたとすると、その問い自体が不平等を産み出す可能性がある点に留意が必要である。繰り返すが、こうした類の問いは、各人のどの時点のどのような要素を平等化するのかという点に我々の興味を焦点化させ、その恣意的な結論がその時点で要素として対象化されなかった要素の不平等を、あるいは別の時点でのその要素の不平等を間接的に正当化する理路として作用し得るのだ*42

すなわち、「何の平等か」について一定の社会的合意が得られたのであれば――それをここでは「機会の平等」だとすれば、我々は常に既に「機会の不平等」の状況に置かれているのであって、その不断の改善に取り組まねばならない。時々の暫定解は存在するが、ゴールは最初からどこにも存在しないのである。そして常に、暫定的戦略として、セカンド・チョイスとして提示されるのは、対象を最不遇者に絞る”レキシミン化”、かつ、給付されるサービスの”マキシミン化”である。*43

「リアル・リバータリアン」の視座から見たJGPの可能性

これまでジョブ、という言葉を多く利用してきたが、最後にMMT(現代貨幣理論)の(規範的側面からのそれも含む)提言であるJGP[Job Guarantee Program]((政府による)就業保証プログラム)を、ヴァン・パリースが称する「リアル・リバータリアン」の視座から簡単に検討したい。

市井の一部では社会保障制度、とりわけ市民の生活を保証する基礎的な制度としてBIとJGPいずれが望ましいかといった議論が行われているようで、私が観測しているのは日本のごくせまい範囲でのことだが、世界的にも行われているようである*44

そのようにしばしば対立を持って語られているBIとJGPという2つの社会保障政策について、その一方から他方を見たときにどう映るのかを改めて論じてもそれほど有益なものにはならないかもしれない。それでも、例えばL・ランダル・レイはその著書で、リバタリアンオーストリア学派は(でさえ)果たしてJGPを支持できるか、という問いを立て一節を割いて説明している*45。同様に、リベラル派の平等理論の本流にあるロールズやセンの理論そのものではないにせよ、それに接近するヴァン・パリースの視座からJGPを見ることは、上記と同程度の意味くらいはあるように思われる。

JGP[Job Guarantee Program](政府による就業保証プログラム)とは

JGPMMTのそのマクロ経済学的側面から極めて望ましい性格を持つものとして提唱されているが、JGP自体はMMTが初めて提唱したアイデアではない。ステファニー・ケルトンによれば、その起源は雇用をすべての国民の経済的権利として政府が保証すべきと考えたフランクリン・D・ルーズベルト大統領に遡れるとされ*46、またレイによれば、これは1930年代に「最後の貸し手」としての中央銀行のオペレーションに相当するものとして提唱された*47

その仕組みはこうだ。

政府は希望する条件に合った仕事を見つけられないすべての求職者に、仕事と賃金と福利厚生のパッケージを提供する。複数のMMT派経済学者が、政府の提供する仕事はケアエコノミー関連が好ましいと主張している。簡単に言えば政府が求職者に、人と地域社会、地球を大切に(ケア)するような仕事を必ず見つけると保証するわけだ。これは雇用市場にパブリック・オプション(公的雇用という選択肢)を設けることにほかならない。政府はこの制度の下で働く労働者の賃金を決定し、実際に就労する人の数は自由に変動させる。失業者の市場価格はゼロである(現時点では買い手がいない)ため、政府が買い値を提示し、彼らのために市場を創るのだ。それが実現すれば、非自発的失業は消滅する。有給雇用を求める人は誰でも、政府の設定した賃金水準で就業機会を与えられる。*48

ここではMMTによって何故JGPが要請されるのかは目的から大きく逸れるため措く。レイないしケルトンを当たっていただきたい。

既存の積極的労働市場政策の問題

ここで一旦、既存の積極的労働市場政策の問題について簡単に確認しておきたい。というのも、雇用こそが社会的に排除されている人々に対する社会的包摂の方法であるとされて実施されてきた各種の積極的労働市場政策ではありながらも、実際に新たな社会的排除を産み出すジレンマに陥っていることが指摘されて久しいからである。

とりわけ先進国においては、グローバリゼーションに伴う雇用構造の転換に起因しての失業問題は、従来型のケインズ主義的な有効需要政策によって解決されるものではなく、むしろ低スキル労働の需給ミスマッチによる構造的現象と見做されてきた。この認識に基づいて各国で行われてきたのが、労働市場へのアクセスを改善して労働者の再雇用を積極的に促す政策である。例えばアメリカやイギリスにおけるワークフェアスウェーデンに代表される北欧諸国での就職あっせん、教育訓練等による就職機会の拡大である。

しかし、このような雇用活性化政策は次のような問題を孕んでいる。第一に、諸個人に対して就業能力向上への強い同化圧力をかける一方で、その基準に満たない者を排除する危険性がある。また、第二に、年齢、ジェンダー、育児・家事・家族ケアなど無償労働への従事、高い職業資格の有無などの諸個人における社会的条件を黙認して、就業能力向上という一元的基準によって推し量ろうとする傾向が強い。

例えば、子どもを抱えたシングル・マザーは育児や家事などの無償労働に従事しながら、同時に行政が課す就労支援措置をこなさなくてはならない。さもなければ、彼女たちは必要な自動手当の給付資格を喪失してしまう。また、場合によっては、労働組合自身が、被雇用者の既得権益を保護するため女性やマイノリティを劣悪な環境に封じ込めようと意図する。つまり、就業能力の活性化に基づく包摂は、職業的地位に関するヒエラルヒーを生み出し、逆説的に労働者が抱える生活上のリスクを拡大させてしまう。これが、積極的労働市場政策の内在的ジレンマである。*49

樋口はさらにこの積極的労働市場政策の内在的ジレンマが続くと仮定すると、さらに2つの問題が引き起こされると指摘する。

第1に、積極的労働市場政策がもたらす選別原理は、労働市場内部だけでなく、労働市場の内部と外部のあいだにより決定的な格差をもたらす。失業の長期化によって労働市場への接点が長期的に失われれば、今まで求職者というカテゴリーに属していた者は徐々に非労働力化する危険に晒されるようになる。(中略)したがって、食料・教育・福祉・住居など基本サービスの欠落を引き起こす社会的ネットワークの喪失が、排除の社会的側面として大きな問題になるだろう。

第2に、社会参加の度合いが低下するにつれて、労働倫理の低減や社会的孤立への危険性が高まる。そのため、諸個人のアイデンティティという文化的側面が社会的排除にとって欠かすことのできない要因になる。一時雇用、研修、職業訓練という非正規雇用を何度も繰り返す失業者にとって、労働倫理は脆弱な状態にある。そのため個人の就業能力向上を目的としたイギリスのワークフェア政策では、労働に対する動機づけが道徳的観点から要請され、失業の原因を個人の責任能力や行為能力に帰責する傾向が強くなっている。*50

ここに示された1.) 社会的ネットワークの衰退、および2.) 文化的アイデンティティの脆弱化を伴った雇用活性化政策への反省が、新たに提案ないし施行される雇用政策には生かされなければならない。雇用を通した社会的包摂のあり方は経済的側面に限定された単層的なものではありえず、社会的・文化的側面を含めた複層的な構造を持つものでなければならない*51

JGPも当然例外とはならないが、少なくとも現在の日本で実現しているものでもないし、その設計や評価に関してはここでは措くこととする。さらに詳しくJGPについて知りたい場合は、例えばむらしんさんにより運営されているWebサイトを参照していただきたい*52

「リアル・リバータリアン」から見たJGPへの見解

そして、「リアル・リバータリアン」から見た場合のJGPである。ヴァン・パリースが提唱する公正な社会を実現するには、BIだけでは全く不十分であることは既に見てきた。よって、リアル・リバータリアンの立場における公正な社会を実現するのに、JGPがどのように有効であるかという観点から、肯定的見解とその限界を推定したいと思う。

肯定的見解

JGPによって非自発的失業がゼロになるという点は、論を俟たず肯定的に捉えられるだろう。

そもそも、ヴァン・パリースは雇用レントをBIと所得課税によって再分配しようと提言しているわけだが、仮に失業者、受益の少ない就業者、受益の多い就業者の3者が存在した場合、失業者と受益の少ない就業者との間のレントは、受益の少ない就業者と受益の多い就業者との間のレントよりも相対的に大きいだろう。最低賃金が一定の有効性をもって機能している時、雇用レントは就業者間では連続的だが失業者-就業者間では最低賃金分だけ不連続である。さらに、こちらのほうがより重要だが、就業が様々な財への経路となっていると説くわけだから、果たしてそれが金銭的補償で十分に埋め合わせられるのかという点は甚だ疑問である。失業者は椅子を求めているのだから、椅子が提供されるべきである。

さらに自由の観点からもJGPは擁護され得る。各種労働法規に形式的な保護を謳ってみたところで、労働者と雇用者の関係は実質的には対等とは言えないのに対し、JGPは労働者個人の交渉力を実質的に上げることに大きく寄与するだろう。営利企業で高額の所得を得ている場合は別かもしれないが、劣悪な労働環境や低所得に甘んじている労働者が、「そんな労働をするつもりはない」と雇用者に言えるだけの実質的な力を持つことができるのである。

その限界と留意点

ただし、JGPでは当然、就業者間の雇用レントを埋めることはできない。この点はBIと所得課税によって再分配が求められる。JGPは公正な社会を実現するための、対象が限定された現物給付サービスの1つに過ぎない。

さらに、先には自由の観点からもJGPは擁護され得ると述べた。が、リアル・リバータリアンの見地からは、十分な金額のBIによって非就労という選択肢が提示されている状況――非就労という選択が実質的に可能であるにも拘わらず、個人が自発的に就労することも可能な状況――を、より自由であると捉えるだろう。これはJGPに対する否定的見解を決して意味しない。繰り返しになるが、JGPが実施されたうえでBIのマキシミン化が目指されることとなる。

既に記述したようにすべての求職者に対して政府が雇用を保証するJGPの特徴を鑑みるに、求職者の中に選別主義を導入するものからは遠く、より包括的で普遍的な制度と捉えることができる。しかしながら、ワークフェア等の既存の積極的労働市場政策が、種々の社会条件に置かれた諸個人を一元的に推し量ろうとすることによって結果として選別し、一時雇用、研修、職業訓練という非正規雇用を何度も繰り返す失業者を産み出し、文化的アイデンティティの脆弱化を招いているという点について、JGPがどう評価されるかは詳細な制度設計ともたらす帰結如何に因るだろう。仮にJGPが、有業者の地位を失業を繰り返す者や無業者に対して実質的に”選別”し”保護”するように作用するのであれば、そのときはじめてリアル・リバータリアンJGPを糾弾し、制度設計の修正を求めることになるだろう。

*1:ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.pp.35, 120-122)

*2:ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.37)

*3:山森亮 著『ベーシック・インカム入門』(2009, pp149-185)

*4:ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.45-47)

*5:中山智香子 著『経済学の堕落を撃つ 「自由」vs「正義」の経済思想史』(2020, pp.233-234)

*6:ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.47)

*7:余談だが、ヴァン・パリースは私的/公的と個人的/集団的を対置してならないと注意している。簡単なことではあるが、ある資産が特定の集団により私的に占有されることもあるだろう。|フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, pp.11)

*8:ロック的私的所有への批判については、本邦においては立岩真也 著『私的所有論 第2版』(1997-2013)は未だ画期的なものであり続けている気がするが、他方ではその批判の射程の深さゆえに取り扱いが困難でもある。

*9:フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, 第4章 資産としてのジョブ pp.145-209)

*10:ガイ・スタンディング 著|池村千秋 訳『ベーシックインカムへの道』(2017-2018, pp.47)

*11:後藤玲子、吉原直毅 著『「基本所得」政策の規範的経済理論―「福祉国家」政策の厚生経済学序説―』(『経済研究』2004, pp.230-244)

*12:ただし、ここで後藤および吉原が2条件の制約の下でおよび3条件の間に次のように辞書的順序をつけることによってと記述している点には注意が必要である。後述の脚注でも記載するが、辞書的序列付けとは前提条件(必要条件)であることを意味し、制約条件よりもより強い意味を持つためである。そしてまた、ヴァン・パリースが提示している第一および第二条件は、第三条件の制約条件である。

*13:ブライアン・バリー『相互性としての正義』(ユージン・カメンカ、アリス・イア・スーン・テイ 編|田中成明、深田三徳 監訳『正義論』収録, 1979-1989, pp.101-156)

*14:河見誠 著『弱者援助義務の内容と法哲学的根拠づけ』(仙台白百合短期大学紀要 No.21, 1993, pp.1-12)

*15:ジョン・ロールズ 著 |川本隆史、福間聡、神島裕子 訳『正義論 改訂版』(1999-2010, 第46節)

*16:ジョン・ロールズ 著 |川本隆史、福間聡、神島裕子 訳『正義論 改訂版』(1999-2010, 第11節)

*17:ジョン・ロールズ 著 |川本隆史、福間聡、神島裕子 訳『正義論 改訂版』(1999-2010, 第47節)

*18:宮内寿子 著『<研究ノート>ロールズ『正義論』における自由の優先順位筑波学院大学紀要第4集, 2009, pp/159-171

*19:後藤玲子、吉原直毅 著『「基本所得」政策の規範的経済理論―「福祉国家」政策の厚生経済学序説―』(『経済研究』2004, pp.230-244)

*20:ヴァン・パリースは適切な資源配分メカニズムとしてドゥウォーキンの「資源の平等」論を参照しながら、「優越なき多様性[Undominated Diversity]」という基準を定式化して提示している。詳細は省くが、私個人はこれに対する立岩の違和に同意する|立岩真也、斎藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.147-149)

*21:他方で、この定式は多分に厚生経済学な要請から提出されたものである可能性が高く、この意味では政治哲学的な観点からこの点に深く立ち入っても得られるものは少ないと思われる|後藤玲子、吉原直毅 著『「基本所得」政策の規範的経済理論―「福祉国家」政策の厚生経済学序説―』(『経済研究』2004, pp.230-244)

*22:経済学的にはリカードの資本蓄積モデルが援用されているか?

*23:立岩真也、斎藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.192)

*24:フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, 訳者解説, pp.427)

*25:フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, 第4章 資産としてのジョブ, pp.174)

*26:立岩真也、齊藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.202-203)

*27:立岩真也、齊藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.202-203)

*28:フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, 訳者解説, pp.427)

*29:立岩真也、齊藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.199, 一部改変)

*30:立岩真也、齊藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.199-200)

*31:後藤玲子、吉原直毅 著『「基本所得」政策の規範的経済理論―「福祉国家」政策の厚生経済学序説―』(『経済研究』2004, pp.230-244)

*32:神島裕子 著『正義とは何か 現代政治哲学の6つの視点』(2018, pp.68)

*33:孫引きとなった部分の訳書は以下|ジョン・ロールズ 著|エリン・ケリー 編|田中成明、亀本洋、平井亮輔 訳『公正としての正義 再説』(2001-2020)

*34:後藤玲子、吉原直毅 著『「基本所得」政策の規範的経済理論―「福祉国家」政策の厚生経済学序説―』(『経済研究』2004, pp.230-244)

*35:中山智香子 著『経済学の堕落を撃つ 「自由」vs「正義」の経済思想史』(2020, pp.233-234)

*36:ただし、齊藤は、ロールズの正義の二原理が辞書的序列――優先する原理は次の原理の"前提条件(必要条件)"であるのとは異なり、ヴァン・パリースの提示する公正な社会の条件は"制約条件"に過ぎないと解説している。この違いによる帰結は決して小さくない。|通常、政府による「再分配」政策の出番は、形式的自由の保護(を法律で規定すること)および機会の平等――と、その結果としての市場による分配――のあとで「事後的」になされる(べき)と考えられているが、これら二つを厳密に達成することは容易ではなく、BIが存在するほうが、これら二つの達成可能性は高まるだろうし、よりよく達成される蓋然性も高いだろう。ここには、形式的自由や機会の平等というものが〇か一かの問題ではなく、「程度問題」であるという認識があるのだ。形式的自由や機会の平等の「完全な」達成を待っていたのでは、いつまでたってもBIの出番は回ってこない。立岩真也、齊藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.248-249)

*37:ここで一般的なBIに目を向けると、例えば、BI推進の国際機関であるBIEN[Basic Income Earth Network]は2016年にBIの定義を公開するとともに、低所得者の状況を悪化させるような、既存の社会福祉サービスの置き換えを伴うBIの導入に理念的にも反対を表明している。しかしながら、ヴァン・パリースの提唱する公正な社会において、BI以外の社会福祉サービスが積極的に求められるのとは大きな違いがあるだろう|International: BIEN’s Clarification of UBI | BIEN — Basic Income Earth Network

*38:フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, 第4章 資産としてのジョブ, pp.137)

*39:神島裕子 著『正義とは何か 現代政治哲学の6つの視点』(2018, pp.56)

*40:後藤玲子 著『センの平等論――社会的選択理論の核心』(新村聡、田上孝一 編著『平等の哲学入門』第10章、2021、pp.182-200)

*41:立岩真也、齊藤拓 著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』(2010, pp.219-220)

*42:関連して、最低賃金に関して必要性の基準によるジレンマについて|これらのわずかな事例は、最低賃金の決定の際に必要性の基準によって作り出されるジレンマを示している。もし必要とされる生計費があまりに狭く限定されると、実際に支払われる賃金にほとんど影響を与えず、不当に低すぎる賃金を支払うときの言い訳に使われかねない。しかし、必要経費が貧しい経済社会の中であまりに広く解釈されると、賃金を非常な貧困の中で労働者の多くを失業に追いやるような水準に導いてしまいかねないのである。しかし、貧困水準の所得を推定しようとすることには何の意味もないということは言えない。全くその逆である。このような推定によって、政策立案者が貧困の広がりと程度を把握し、貧困者の特性の輪郭を描けるようになるという点において意義を有するということは疑いのないところであり、しばしば、基本的に必要な開発戦略の重要な要素の1つを構成しているとみなされている。それにもかかわらず、必要性の基準を最低賃金決定の唯一の基準としては用いることはできないと、現在広く受け取られているのである。厚生労働省『最低賃金の決定基準』(第8回最低賃金制度の在り方に関する研究会 配布資料3 2005/03/03)

*43:ただし、BIのマキシミン化について後藤は、新古典派経済学的な就労インセンティブ議論に基づいている限りは、極めて低いBI水準が社会的に推奨される可能性を否定できないという指摘を行っている。実質的自由の保証を達成するため、BIの充分な水準を目指したとしても、それを実現するための個々人の効用関数が新古典派経済学で仮定される基本的性質を満たすのであれば、より低い課税率(代替効果が現れにくい)とより低い給付水準(所得効果が現れにくい)の組合せが推奨されるだろうと述べる。ただし、これに対して、ロールズが想定する個人は、私的利益の最大化を図る個々人という図式を大きく飛び越える可能性があり、経済学的モデルに当てはめることはできないのではないかとも述べている。|フィリップ・ヴァン・パリース 著|後藤玲子、齊藤拓 訳『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』(1995-2010, 訳者解説2, pp.455-469)|または|アマルティア・セン後藤玲子 著『福祉と正義』(2008、終章、pp.263-296)

*44:例えば、Job Guarantee vs Basic Income

*45:L・ランダル・レイ 著|島倉原 監訳|鈴木正徳 訳『MMT現代貨幣理論入門』(2015-2019, pp.437-442)

*46:ステファニー・ケルトン 著|土方奈美 訳『財政赤字の神話: MMTと国民のための経済の誕生』(2020-2020, pp.93)

*47:L・ランダル・レイ 著|島倉原 監訳|鈴木正徳 訳『MMT現代貨幣理論入門』(2015-2019, pp.408)

*48:ステファニー・ケルトン 著|土方奈美 訳『財政赤字の神話: MMTと国民のための経済の誕生』(2020-2020, pp.92)

*49:樋口明彦 著『現代社会における社会的排除のメカニズム:積極的労働市場政策の内在的ジレンマをめぐって』(社会学評論 55(1)、2004、pp.2-18)

*50:樋口明彦 著『現代社会における社会的排除のメカニズム:積極的労働市場政策の内在的ジレンマをめぐって』(社会学評論 55(1)、2004、pp.2-18)

*51:樋口明彦 著『現代社会における社会的排除のメカニズム:積極的労働市場政策の内在的ジレンマをめぐって』(社会学評論 55(1)、2004、pp.2-18)

*52:就業保証プログラム